ノジュール9月号
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豊臣秀吉の死後、天下統一への野望を表した徳川家康に対して、会津の領主上杉景勝は敵対する姿勢を明確にした。慶長5年(1600)、家康は「景勝に謀反の疑いあり」として上杉征伐の軍を起こすが、畿内で石田三成が挙兵したため、急遽Uターンして西上し天下分け目の関ヶ原の戦いが起きる。景勝は、家康の動きに呼応して攻め込んできた山形城主の最も上がみ義よし光あきに対し、家老の直江兼続を差し向け合戦に及んだ。 直江兼続は秀吉がその才能に惚れ取材・文:内田和浩 写真:宮地 工米沢城上杉30万石を支えた直江兼続の志を伝える豊臣家の五大老・上杉景勝は関ヶ原の戦いで敗軍の西軍に味方したため、会津から米沢に転封となる。その居城、米沢城は30万石の居城としては質素だが、そこには上杉家を支えた家老・直江兼続の智謀が張り巡らされていた。米沢へ上杉家3万人の大移動城と城下町を歩く モデルプラン三62夕暮れの上杉神社参道

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