ノジュール9月号
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日本の城の歴史は、約2000年前の弥生時代に始まる。農耕社会は富の蓄積をもたらし、財産を守るための防御施設が必要となった。これが佐賀県の吉野ヶ里遺跡に代表される環濠集落で、周囲に堀や柵をめぐらし、内部には高い物見櫓が建てられた。 奈良時代~平安時代は比較的平和な時代で、平城京や平安京は都市計画こそ中国の長安や洛陽などの都を模範にしたが、高い城壁は作らなかったし、鎌倉時代の武士たちも堀のある居館に住んではいたが城と呼べるほどではなかった。これが南北朝の争乱期になると、戦時における山城が全国に造られ始める。土塁や狭い空から堀ぼりで守る土造りの城であり、戦いが終われば用がなくなった。やがて戦国時代に入り戦いが日常茶飯事となると、領主や家臣らも山城の中に住むようになった。大きな勢力をもつ領主は所帯が大きいから、その住まいである山城も巨大化する。その例が上杉謙信の春日山城や毛利元就の吉田郡山城である。 城の歴史に大きな変化をもたらしたのが織田信長だ。天正4年(1576)から築城を始めた安土城は、高い石垣、瓦葺きの建物、そして高さ約33mに及ぶ高層建築の天主(天守の古い呼び名)を初めて城に導入したものだった。信長は天下人の権威の象徴として安土城を築いたのだ。この安土城をさらに豪華にした城が豊臣秀吉の大坂城であり、秀吉の家臣らはこぞって大坂城のミニチュア版のような城を領地に築いた。こうして城が築かれる地は山から平野の丘陵(平山城)、そして平地(平城)へと移っていった。技術の進歩によって高い石垣や水堀で敵を防げるようになったためだ。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下を取った徳川家康は、全国の大名を動員して江戸城、名古屋城などの巨大な平城を築いていった。 明治初期には城は無用のものとなり全国で取り壊しが行われた(廃城令)。現在に残る城の遺構は、さまざまな変転を経て生き残った貴重な歴史の証人といえるだろう。紀元前後吉野ケ里遺跡などの環濠集落が発展663白村江の戦いで倭国(日本)敗北(九州に水城、大野城築城)710平城京に遷都724陸奥国に多賀城が造営794平安京に遷都802坂上田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築城12世紀奥州の藤原清衡が平泉館を造営1332千早城の戦い(鎌倉幕府vs楠木正成)1467応仁の乱以降、守護大名が居館を城郭化1567織田信長が居城を岐阜城に移す1576織田信長が安土城を築城1582本能寺の変ののち、安土城焼失1583豊臣秀吉が大坂城を築城1586豊臣秀吉が聚楽第を造営1600関ヶ原の戦い、徳川家康の天下普請開始(以後、築城が相次ぐ)1601池田輝政が姫路城を改修、現在の天守を造営1603徳川家康が征夷大将軍に就任、江戸城の大改修に着手1615大坂城落城(江戸幕府が一国一城令を発布)1638江戸城天守[寛永天守]が完成(1657年焼失)1854伊予松山城の天守完成(江戸時代最後の現存天守)1857幕府が函館に五稜郭を築城(最後の大規模築城)1873明治政府が廃城令を発布1877西南戦争で西郷隆盛が熊本城攻め(最後の城攻め) うちだ かずひろ●1962年横浜市生まれ。歴史ライター。共著に『名城をゆく』(小学館)など城の歴史は? 縄張って何? 天守の種類とは? 様式や構造を知っておけば、城巡りが数倍楽しくなります。城を深く理解するための豆知識をご紹介します。写真:岡 泰行、姫路市、編集部 イラスト:POSITIVI分でわかる! 10一城の歴史と変遷を知っておく明治弥生奈良鎌倉室町安土桃山江戸平安飛鳥環濠集落から山城へ低地の平城が主流に城の基礎知識城の歴史文 内田和浩70平城平山城山城平地に築かれ、堀と石垣で防衛する。周囲には広大な城下町を形成する平地にある低い山や丘の上に本丸を築き、地形を利用して石垣を築く山の頂きや尾根を削って平らにした曲輪を設け、土塁・空堀などで守る

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