こだわり1万円宿 第6回

旅ライターの斎藤潤さんおすすめの、一度は泊まってみたい宿を
「予算1万円」に厳選して毎月1宿ご紹介します。

熊本県

小天温泉 那古井館

小天温泉の旅情溢れる、漱石ゆかりの宿

美しい庭園を眺め
『草枕』の世界を想う
熊本城に近いバスセンターから乗った玉名(たまな)駅行きのバスは、30分ほどで海辺に出た。左手に広がるのは島原湾で、塩屋や白浜などの漁村を通過して少し内陸に入ると、小天(おあま)温泉に到着した。

予約していた夏目漱石『草枕』ゆかりの宿那な古井館(こいかん)は、バス停のすぐ目の前にあった。敷地の入口脇には漱石の「温泉や水滑らかに去年の垢」という句を刻んだ石碑があり、奥に手入れが行き届いた庭が広がっている。予想以上に整った庭園だった。

玄関には髭を蓄えた夏目漱石の大きな肖像写真と、草枕に登場する謎の女性那美のモデルになった前田ツナと老隠居のモデルとされる前田家当主の前田案山子(かがし)の肖像写真も掲げられていた。

温泉の湧く小天は、『草枕』には那古井として登場するので、漱石は那古井館に泊まったのだと思い込んでいたら、勉強不足だった。

志保田家として描かれている、前田家の温泉付き別邸に泊まったのだという。前田家の末裔は地元にいないが、前田家別邸は『草枕』の舞台になった場所として整備され、主人公の画工が入浴中に那美さんが入ってきた浴場や泊まった部屋も公開されているという。

まず朝食会場になる食事処に案内され、抹茶と自家製の羊羹をいただく。通された桐の間は8畳と6畳の二部屋からなり、広々とした庭に面していた。明治元年の創業で、建物の柱や梁は当時のものだというが、手入れがよく、それほど古びた感じはしない。トイレは別だが、洗面台はある。6畳間の広縁には、ゆったりした椅子も置かれている。ここに座り、雨にしっとり濡れた庭をしばらく眺め、『草枕』の世界に想いを巡らせる。

掛け流しの湯と
細やかなもてなし
に憩う
一休みしたら、やはり温泉だ。入浴できるのは夜の10時までと朝の7時から8時まで。源泉は38℃なので加温しているという。夜が早めに閉まるのは残念だが、お湯は贅沢に掛け流しだった。1分間に300ℓ湧いているからできる業だろう。透明で癖のない単純泉が、湯槽から惜しげもなく溢れ出す。比較的熱めとぬるめの湯槽があって、ぬるい方に長々と浸かり、最後は熱めで仕上げた。

夕食は自室で。最初にウニ豆腐と刺身盛合せ、アンコウのみぞれ鍋が並んだ。続いて、あしらいの美しい温かな玉子豆腐。こちらの食事のペースに合わせて、一番いい状態で供してくれる。

スズキの照焼き、ホタテガイのパイ包み焼き、フグのから揚げ、蒸しもの、特製シューマイ、生ノリと豆腐の味噌汁。デザートは、リンゴの白ワイン煮。特別豪華な食材というわけではないが、工夫された楽しい料理だった。

翌朝は爽やかに晴れ、朝食後に薬師如来などが祀られた祠がある庭や近くにある前田家別邸周辺を散策した。丘の上には回廊仕立の前田家別邸をイメージした構造の「草枕温泉てんすい」もあったが、足をのばせず残念だった。

さいとうじゅん●1954年岩手県生まれ。ライター。テーマは島、旅、食など。
おもな著書は『日本《島旅》紀行』『島ー瀬戸内海をあるく』(第1〜第3集)、『絶対に行きたい!日本の島』など。
今夏、『ニッポン島遺産』、『瀬戸内海島旅入門』を刊行予定

(ノジュール2016年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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