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渋沢栄一の足跡をたどる

渋沢が本邸を構え、
人生の拠点とした飛鳥山へ

文=高橋盛男 撮影=宮地 工

王子・飛鳥山。ここにはかつて、渋沢栄一の邸宅がありました。
幕臣、そして政府官僚を経験したあと、民間で活躍し、明治日本の発展を支えた渋沢。
現在の飛鳥山には、渋沢史料館や紙の博物館が立ち、大正期の建物「晩香廬」と「青淵文庫」が当時の姿を残しています。

史料館で見て感じる
実業家への道のり
桜の名所、飛鳥山〈あすかやま〉公園。JR王子駅や東京さくらトラム(都電荒川線)の飛鳥山停留所から間近で、東京都北区では一番人気のスポットだ。明治34年(1901)、61歳の渋沢栄一は、このお山の南に移り住んだ。その余生は多忙ながらも、自適の暮らしだったらしい。

本宅跡が今の渋沢史料館である。昨年リニューアルオープンした同館では、「ふれる・たどる・知る」の3テーマで展示を構成している。映像や音声による展示もあり、生前の渋沢がより身近に感じられる。

隣接する旧渋沢庭園には、晩香廬〈ばんこうろ〉と青淵文庫〈せいえんぶんこ〉という建物がある。ともに大正時代の建築で、晩香廬は渋沢と関係の深かった清水組(現・清水建設)が寄贈した洋風茶屋。こぢんまりとした外観ながら、瀟洒〈しょうしゃ〉な広間を擁している。一方の青淵文庫は、渋沢門下生の団体「竜門社」が寄贈した書庫。壁に石板を貼った重厚な外観に反し、屋内は細工を凝らしたシャンデリアやステンドグラスなどで彩られている。

さて、渋沢が20代のころに少し立ち戻ろう。彼の生き方を決定づける大きなターニングポイントがあった。慶応3年(1867)開催の第2回パリ万博への派遣である。渋沢は将軍・徳川慶喜の名代として、パリ万博に派遣された徳川昭武〈とくがわあきたけ〉の随行員を務めた。初めて目の当たりにした欧州の近代文明に、渋沢は驚愕する。そして、銀行・保険などの金融、船舶・鉄道などの運輸をはじめ、社会インフラを整える事業が、日本の近代化に不可欠だと考えた。この経験が実業家への胎動となる。

(ノジュール2021年4月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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