いつか泊まってみたい懐かし宿 第87回
山形県米沢市
白布温泉湯滝の宿 西屋
懐かしさあふれる空間
白布温泉で路線バスから下車すると、ちょうど西屋の前だった。左には茅葺屋根の大きな建物、正面には明かりが点る本館が、闇の中に浮かび上がる。もう6時を過ぎていたので、すぐに夕食をとるように言われるかと思ったら、最終は7時開始だという。それならば、温泉でゆっくり汗を流してからにしよう。
フロントやロビーは茅葺入母屋造りの母屋にあり、棚に大黒や恵比寿などの神様が祀られ立派な囲炉裏を備えた奥の茶の間は、懐かしさいっぱいの空間になっていた。
茶の間の板の引き戸は、築200年の母屋より古く、江戸時代火事になった時に板戸だけはずして外へ放り投げて救ったものだという。時の経過によってしか滲み出てこない、吸い込まれそうなしっとりとした艶に目を奪われてしまう。
虎斑のような独特の美しい杢目に包まれた茶箪笥は、指物の最高の素材桑の木を使ったものだという。
客室がある本館は本陣作りでおよそ築80年。廊下は、すべて籐ゴザ敷き。部屋へ向かう途中、囲炉裏がある団欒室をのぞく。廊下から一段下がった部屋には、旅の本などが多数そろい、寛げる一角となっていた。
通されたのは、1階の小ぎれいな6畳の部屋だった。2畳ほどの縁側には、小さな椅子とテーブルがある。洗面台やトイレは部屋の外で、共同だ。昭和51年に、湯治客用の大部屋を区切って作った部屋で、隣の話声や上階の足音が聞こえることもあるという。部屋からの眺めはバス通りで、開けた谷間の向こうには深い森が広がっていた。
大中小と揃った浴衣の柄は、大半が意味不明の横文字。なんとエスペラント語だという。国際化の時代で外国からの客も増えるだろうと、こんな斬新な柄を採用したのだ。
名物湯滝に存分に打たれる
浴場は2ヵ所で、うち1ヵ所は空いていれば自由に入れる家族風呂だから、常に入れる風呂は1ヵ所(男女別)ということになる。
浴場は貸切りだった。浴槽は数人入れるほどの広さ。奥の板塀に囲まれた一角に、三筋の湯滝が落ちていた。湯滝の湯量は、一般的な打たせ湯よりはるかに多く刺激的で気持ちいい。肩、首筋、背中、腰、頭など、湯を当てられるところはすべて試した。お湯は盛大な掛け流し。源泉が注ぐ湯槽は湯温が60℃あるそうで、浸かるわけにはいかない。
湯滝のお湯がそのまま浴槽に溜まり、さらに溢れ出して浴室の下から流れ出し、渡り廊下の簀子の下を通って溝に流れ込むようになっていた。
浴槽を畳む石は花崗岩だが、温泉の成分が沈着して黒くなっている。それはそれで重々しい雰囲気があって悪くない。以前は、あるていど沈着物が溜まるとわざわざノミで削り取っていたが、あった方が風情があるという客もいるので、今はそのままにしているそうだ。
季節感あふれる夕食は、若い女性にも人気がありそうなメニューだった。前菜盛合せは、いちじくのワイン漬け、あけびエリンギ肉味噌など6品。続いて、米沢の郷土料理冷や汁、和牛の陶板焼き、芋煮鍋、ヤマメの塩焼き、栗とサツマイモの白和え、うこぎのテリーヌ豆乳ソースかけ、かぼちゃのタルトなど。
寝る前に、家族風呂へも行ってみた。名物湯滝が思ったより狭かったのに対して、家族風呂は意外に広い。湯滝の浴槽のように激しい流れがなく、透明な湯に掻き卵のような湯の花がふわりふわり漂っていた。
朝再び湯滝へ行くと、けっこう客がいるのにまた嬉しい貸切り状態。
朝食もなかなか充実していて、お勧めの秘伝の豆乳はとてもミルキーでほのかに甘く、豆臭さを全く感じさせない印象的な味だった。
さいとう じゅん●1954年岩手県生まれ。ライター。テーマは島、旅、食など。おもな著書に『日本《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『旬の魚を食べ歩く』『島で空を見ていた』。
近著は『島──瀬戸内海をあるく』(第1~第3集)、『絶対に行きたい! 日本の島』