[エッセイ]旅の記憶 vol.26
ボスフォラス海峡のススキ
五木 寛之
眠れぬ夜に、これまで訪れた異国の街を数えてみることがある。すぐに頭に浮かぶ場所もあれば、なかなか思い出せない街もある。
風景だけが記憶に残っている街は、なんとなく鮮明ではない。音や、匂いなどが重なって心に焼きついていると、からんだ糸をほぐすように様々な情景がよみがえってくるものだ。
呪文のようなフレーズとともに必ず現れてくるのは、トルコの古都、イスタンブールである。アジアとヨーロッパをへだてる海峡は、ボスポラス海峡とも、ボスフォラス海峡とも呼ばれるが、私はロシアの詩人、エセーニンの作品のなかで使われているボスフォルという語感が好きだった。
『きみはボスフォルの海を見たか』
という題だったはずだ。
しかし、メロディーとしてすぐに浮かんでくるのは、『ウシュクダラ』の唄である。
〽ウシュクダラ ギデリケン アルディダ ビリ ヤンムー と、アーサー・キットがうたい、世界的に大ヒットした。やがて江利チエミがカバーして、これも人気を集めた。たしか「ウシュクダラはるばる訪ねてみたら」といった訳詞だったと思う。
ウシュクダラは、アジア側の地域で、かつては寒村だった。その村からボスフォラス海峡をわたって、大勢の貧しい若者たちが対岸のイスタンブールに出稼ぎにいく。
もともとはトルコ民謡で、「ウシュクダラにいったときは雨だった」といった叙情的な唄なのだが、レコード化されたときは、かなりちがう雰囲気の曲になっていた。わが国では、コミカル・ソングのような受けとられかただったのである。
イスタンブールは、迷路のような街だった。トプカプ宮殿の窓から海峡を眺めていると、ふと視界のなかに白く揺れるものがあった。
それがススキの穂であることを知ったとき、私の頭の奥に日本列島とトルコを結ぶ透明な道がまざまざと見えたような気がした。
サクラも、ススキも、日本の象徴のようなイメージがあるが、実際には遥かな異国から遠い旅をしてたどりついた植物たちだろう。
ボスフォラスの海はどこまでも青く、対岸は陽炎(かげろう)のように揺れていた。そのとき遥かな異国を、故郷のように懐かしむ気持ちが私の中に湧きあがってきたことを忘れることができない。
写真:大川裕弘
いつき ひろゆき●1932年福岡県生まれ。
1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞を、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を、76年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。
2010年の『親鸞』は累計100万部を超えるベストセラーに。
代表作は『風に吹かれて』『百寺巡礼』『大河の一滴』など。近著に『杖ことば』。
小説、随筆、エッセイ、翻訳など多岐にわたる活動をしている。