いつか泊まってみたい懐かし宿 第92回

秋田県 鹿角市

後生掛温泉

1泊きりの疑似体験では味わい尽くせぬ魅惑の湯治湯

ポカポカの床でごろごろ

予約していた湯治部は、旅館部の脇を少し下ったところだった。事務所の入口には「湯治部フロント」「入浴券売場」「日帰り温泉朝8時から夕方5時終了」などと記されている。こちらが、本来の後生掛(ごしょうがけ)温泉だろう。 朝夕の食事場所は、フロント右奥にある若竹寮の2階大広間などと説明されてから、伝票のような食券を受け取った。フロントの向いには、大きな売店があり、湯治生活に必要そうなものは、何でも揃っている。

受付が済むと、宿のオバちゃんがオンドル部屋まで案内してくれた。狭くどこまでも続く廊下は、まるで迷路そのもの。途中、大浴場の場所も聞いたが、一人で行けるか心許ない。連れて行かれたのは一番奥まった白樺寮のオンドル個室だった。それ以外に、オンドル大部屋や2階の畳部屋もある。5棟ある湯治棟の収容人数は200人。

部屋の扉を開けると、熱気があふれた。扉と窓を開け放して室温を調整する。広さ6畳ほどの部屋には、ビニールのござが敷かれ、床はもちろんホカホカ。ほかの部屋も扉が開け放たれていた理由が分かった。居ながらにして岩盤浴できるようなものなのだから、健康には効果的だろう。

オバちゃんは、布団(100円)と毛布(100円)と枕(30円)を、持ってきてくれた。素泊まりなので、空間以外はすべて持参するか借りなくてはならない。宿泊明細書の貸物品の欄には、浴衣、鍋、ヤカン、テーブル、お茶道具なども書かれている。寝具が揃うと急に宿泊部屋らしくなった。

ポカポカの床に転がってみたり、腹ばいになったり。遠足に来た子どものように、はしゃいでしまう。廊下の突き当たりの外には、荒涼とした地獄の風景が広がり、立入禁止になっていた。

目移りしそうな7種の温泉

大浴場へ向かう途中、外に出た。建物の下を通る蒸気が流れるパイプから白い湯気が噴き出している。蒸したイモをぶら下げた人がきた。天然の蒸し釜があるのだ。各部屋の外には、色々なものが詰まったレジ袋がぶら下げてある。冷涼な外気を天然の冷蔵庫代わりに利用しているらしい。

鈴らん寮の入口付近の扉が、焼山(やけやま)登山口になっていて、引き戸の上には紙し垂でがついた注連縄が張ってある。「入山する場合は必ず湯治部フロントにお届けください」など、いくつかの注意書きがあった。それにしても、こんな立地条件の登山口は珍しい。

肝心の温泉は7種類もあって目移りしたが、一番特徴的なのは木箱に入り首だけ出して温まる箱蒸し風呂。お気に入りは、滝湯。そのほかに、天然蒸気のサウナ風呂や気泡が肌にいい火山風呂、美肌効果抜群の泥風呂、全身が温まる神経痛の湯、そして露天風呂。

滝湯にじっくりと打たれ全身の凝りをほぐし、泥湯では底から何回も鉱泥を掬い上げて腕や顔に塗ってみる。蒸気のサウナは湿度100%だから、温度が低いのにパンチが効いていた。箱蒸し風呂は、個人専用サウナのよう。

自炊場は和気藹々(あいあい)とした空気に満ちている。3、4日滞在すればあの中に入れてもらえるかもしれないが、1泊だけの似非湯治客では近寄りがたい。

夕方6時過ぎに夕食会場へ行くと、もう最後の方だった。全体に和やかな空気が漂っている。湯上りのビールを頼んで、まずサワモダシの醤油煮おろし添えをつまむ。そのほかに並んだのは、ギンダラの味噌漬け、ブナハリタケと鶏肉の煮物、巻き干し柿など珍味3点、数の子の和えもの、ほか。土地の香りも感じられ、これで十分だった。

布団は床の熱気がよく伝わるよう、わざと薄くしてあるらしい。慣れない籐枕はとうとう使いこなせず、着替えを丸めて枕替わりにした。また、同じ部屋でも場所によってかなり床の温度が違う。布団をずらして、一番心地よい場所を選んでぐっすり眠った。

宿を発つ時、次回は最低3泊して、自炊にも挑戦しようと思っていた。

さいとうじゅん●1954年岩手県生まれ。ライター。テーマは島、旅、食など。おもな著書に『日本《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『旬の魚を食べ歩く』『島で空を見ていた』。近著は『島──瀬戸内海をあるく』(第1~第3集)、『絶対に行きたい! 日本の島』

(ノジュール2014年5月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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