[エッセイ]旅の記憶 vol.35

私だけのほくそ笑み

西村 健

盆や正月、帰郷の際にはできる限り鈍行列車を使う。東京から九州へ、日本の半分をせっかく縦断するのだ。飛行機なんかで一飛びするのは勿体ないではないか。時間の自由が比較的、利く仕事なのを幸いのんびり旅情を味わいたいわけである。たいていは途上2泊くらいしながら、じんわりと故郷(ふるさと)を目指す。

鈍行旅の何よりの魅力は、沿線の日常に入り込めることだろう。周囲で乗り降りしている乗客はほとんどが、地域の住民である。私にとっては帰郷の手段であっても、彼らからすれば通勤通学、あるいは買い物の足である。列車に乗ることは生活の一部に過ぎない。そこに、私だけが部外者として入り込んでいる。その感覚が何とも言えない。

また走行速度が遅いので窓の外がよく見える。そこに広がる光景も地元の人々にとっては、日常の一部である。工場。豊かな田園風景。静岡の菊川駅の辺りでは、茶畑。変わったところでは山口の南岩国駅前で、蓮池が一面に広がる光景も望める。こうしたところで作られたものを自分達は日々利用し、口に入れているのだなぁ。しみじみ実感する。普段、意識していないだけで実はこれら各地の暮らしと、私達とはどこかで繋がっているのだ。

ところどころ、海を眺めることもできる。最も眺望がいいのは小田原駅から熱海駅の間だろうか。切り立った断崖の上を走るため、眼下から水平線にまで広がる大海原が見渡せるのだ。これは堪らない。他にも兵庫の舞子(まいこ)駅周辺や広島の尾道(おのみち)駅の前後、山口の大畠(おおばたけ)駅辺りなんかが私のお気に入りである。

ただこうした、誰が見ても素敵な風景ばかりではない。これだけ何度も乗っているんですもの。どの辺りで何が見えるか、だいたいは分かってる。岡山駅を過ぎたからそろそろズラリと並んだラブホが見えるな、なぁんて考えてるとついつい、ほくそ笑んでしまう。他の人にはどうでもよくても私にとっては結構、重要。ある意味、自分だけの風景である。

極めつけは山口県、防府(ほうふ)駅手前の大型パチンコ店である。金髪の女性が眼と口を一杯に開いて、笑っている看板が目印。一度、見たら忘れられない強烈なインパクトだ。これが見えて来たら間もなく防府駅、と分かる。

あの看板、いつまで掲げられているんだろうな。なくなったら結構、寂しい思いをすると思う。他の方にとっては本当にどうでもいいことなんだろうけども、やっぱり、そう。あれも私だけの、大切な風景なのだ。


写真:大川裕弘

にしむら けん●1965年福岡生まれ。小説家。
東京大学工学部卒業後、技官として入省した労働省(現・厚生労働省)を4年で退職、学生時代から目指した小説家へ転身という異色の経歴。1996年『ビンゴ』(日本冒険小説協会優秀賞)でデビュー。
代表作は、少年時代を過ごした大牟田の炭鉱を舞台にした、2011年『地の底のヤマ』(吉川英治文学新人賞)。
ほか、『ヤマの疾風』(大藪春彦賞)、『劫火』、『霞が関残酷物語 さまよえる官僚たち』 など著作多数。

(ノジュール2015年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
ご注文はこちら