[エッセイ]旅の記憶 vol.37
マルタのハニーストーン
森 絵都
誰かと一緒の旅よりも、一人旅のほうが長く深く記憶に残る。それが私の持論だった。「残る旅」がしたいならば一人に限る、と。
勿論、親しい相手との旅行は楽しい。美しい景色も、美味しい料理も、「いいね」「いいね」とわかちあえる。反面、口に出すことで満足し、意識がそこで完結してしまうきらいも否めない。それに、道連れがどんな相手であっても、共に知らない土地をめぐれば普段見えない一面が見えてくるもので、互いにそれを面白がったり、いらだちあったりするのに忙しく、旅への集中力に欠けてしまう。
毎夏恒例の夫との旅もそうだった。どこを訪ねても今ひとつ異国情緒に浸れず、家のベランダの延長線上を歩いている気がする。互いにうっかり者で、空港を間違えたり電車を間違えたりのトラブルも絶えない。
地中海に浮かぶマルタ島の旅も、最初は残念なトラブルから始まった。到着した空港で、待てど暮らせど荷物の一つが出てこない。結局、発見後の連絡を待つこととなり、長距離フライトで疲れていた私たちはまっすぐホテルをめざした。タクシーの窓から見える街並みにさしたる感興はなかった。「マルタと言えば猫ですね」と日本では皆が言うけれど、猫の影など一つもない。猫はいないのかと尋ねると、ドライバーの男性は「猫?」と困った顔をし、自分の家で飼っている犬の写真を見せてくれた。荷物はなくなる。猫はいない。なんだか冴えないところだ。
その印象が一転したのは、翌日、高台にあるホテルのテラスからバレッタの街並みを一望した時だった。自分はどこにいるんだろう。突如、ベランダの延長線上から突き落とされたように、私は日本から引きずってきた日常を身ぐるみ剥がされ、完全なる異世界に漂っていた。欧州でもアラブでもアジアでもない、かつて見たことのない風景がそこにはあった。なにより、街の色合いが違う。少しくすんで、温かく、奥行きのある深いベージュ。
後に調べたところ、唯一無二の情緒を醸していたのは建築物に使われている石だった。ハニーストーン。マルタは、独特の風合いからそう呼ばれる石灰岩の産地なのである。
蜂蜜色の国で夫と私は旅空の異邦人になりきった。毎朝テラスから街を眺め、日中は気の向くままに路地をすずろ歩き、夜には飽きずに街明かりを眺めた。本当にすごい風景は、誰と一緒であろうと記憶にしかと刻まれる、それを教えてくれたハニーストーンだった。
イラスト:サカモトセイジ
もり えと●1968年東京生まれ。1990年、講談社児童文学新人賞を受賞した『リズム』で小説家デビュー。
1995年『宇宙のみなしご』で野間児童文芸新人賞を、1999年『カラフル』で産経児童出版文化賞を、2003年『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞を受賞。
2006年には『風に舞いあがるビニールシート』で直木賞を受賞した。
近著に、『おいで、一緒に行こう』『クラスメイツ』『希望の牧場』など。
(ノジュール2016年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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