[エッセイ]旅の記憶 vol.40

本日ただ今のこの景色

桐島 洋子

昭和47年(1972)に「淋しいアメリカ人」で大宅壮一ノン・フィクション賞を受賞した私は、その祝いと、積年の親不孝の償いとを兼ねて、両親と一緒にヨーロッパ巡遊の旅に出た。私としては一世一代の大盤振る舞いだが、父は富豪の一人息子として戦前の欧州旅行で贅を尽くした人だから、同じ舞台に立つとまるで貫録が違う。料理とワインの選び方や、チップの渡し方をはじめ、あらゆる挙措動作が、実に自然にエレガントで、わが親ながらなんて恰好いいのだろうと誇らしく思ったりしたものだ。 一方、至るところに忍びよる老いの兆候が感じられるのは哀しいことだった。特にそれは後ろ姿に顕著だったから、私はなるべく父の背後には回らず、若いアベックのように寄り添い軽く腕を組んで歩くように努め、「お仲のいいこと。私に妬かせたいの?」と母にからかわれたりした。

父が一番行きたがったのは、私もどこより好きなフィレンツェだったから、ゆっくり一週間滞在して、心行くまで歩き回った。中でも一番のお目当てはウフィチ・ギャラリーであり、そこに待つボッテイチェリである。子供の頃、父からの誕生日プレゼントはたいてい画集だったが、十二歳のとき「これがオレの一番好きな絵描きなんだよ」と言って贈られたのがボッテイチェリの画集で、私もたちまち夢中になった。

さて遂にウッフィッツィ美術館に辿り着いた父は、ボッテイチェリのあの有名な「ヴィーナスの誕生」の前に長い間じっと立ち尽くしている。肩の動きをみると泣いているようだ。「お父様、なにか様子が違うんじゃない、大丈夫かしら」と少し心配になった私が母に囁くと、「初恋の人との再会なのよ。邪魔してはいけないわ。」そう言って微笑みながら、母も少し涙ぐんでいた。

このヨーロッパ旅行はほとんど汽車で移動した。長い長い時間、窓外を流れる同じような田園風景を父母は静かに眺め続けている。流石に退屈した私は、ちょっと大きな駅の売店で、珍しく英語の雑誌を見つけたので、しめしめと買い込み、早速広げて読み始めた。すると珍しく父がちょっと苦苦しげに眉を寄せて、「そんな下らん雑誌より、折角の景色を見た方がいいんじゃないか」と説教じみたことを言う。「だって全然変わり映えしないし、どうせまた見る景色だもの」と口答えしたときに返って来た父の名言は忘れられない。「本日ただ今のこの景色は二度と再び見られないのだよ」

本当にそうなのだ。私たちが生きている一瞬一瞬は、決してとり返しがつかない唯一無二のものである。一期一会という美しい、しかしどこか哀しい言葉もある。そう、一期一会こそ旅の真髄であり、すなわち人生の真髄なのだ。


イラスト:サカモトセイジ

きりしま ようこ●作家。1937年東京生まれ。
編集者、フリーライターを経て1970年『風の置手紙-渚と澪と舵-』で小説家デビュー。
『淋しいアメリカ人』で第3回大宅壮一ノン・フィクション賞を受賞。
『聡明な女は料理がうまい』などで、新しい時代を生きる女性として話題に。
近著に『ほんとうに70代は面白い』など。

(ノジュール2016年4月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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