東西高低差を歩く関東編 第16回

地形に着目すれば、町の知られざるすがたや物語が見えてくる。
第16回は江戸城。現在は皇居となっている江戸城の成り立ちも高低差から読み解けば、江戸が江戸であるゆえんが見えてくる。

地形を制した

城と城下町


イラスト:牧野伊三夫

土地の高低差や凸凹地形は、町の成り立ちを読み解くヒントになる。そんなテーマを掲げての連載であるが、東京の地理的中心、皇居とその周辺は地形的観点からのエピソードも豊富である。

武蔵野台地東端に位置する皇居は、言うまでもなく江戸城が築かれた要害の地。隅田川や荒川が流れるデルタ地帯・下町低地を望む好立地だ。これまで武蔵野台地に刻まれた谷筋のエピソードを多く取り上げてきたが、平坦と思える下町低地にも1~2m程度の微細な高低差が存在し、都市の形成や発展と深くかかわっている。

皇居周辺凹凸地形図によれば、東京駅と皇居に挟まれた一帯が、日本橋や銀座と比べ僅かながら標高が低いことが分かる。この一帯はかつて「日比谷入江」と呼ばれた浅海が陸地に入り込んでいた場所で、江戸時代初期の埋め立てで生まれた土地。周辺よりも土地が若干低いのは、長い歳月の中で埋め立てられた地盤が沈下したものと考えられる。

徳川家康が小田原北条氏の一支城に過ぎなかった江戸城に入った時の様子が、江戸時代中期の史料『岩淵夜話別集』に記されている。それによれば、江戸城の足元まで汐入りの茅原が広がり、対岸にある半島状の土地には集落があった。この汐入りの茅原が日比谷入江で、ヒビとは干潟や浅瀬に突き立て海苔や牡蠣を付着させて収穫するのに用いる竹や木の枝のこと。海苔や牡蠣の養殖を行っていた漁民集落が日比谷と呼ばれていたのだろう。日比谷入江は幕府の命により、主に西国大名が埋め立て工事を担い、城下の新興住宅地に生まれ変わった。中央に設けられた大名小路の両側に、外様・譜代大名の上屋敷が建ち並ぶ様は圧巻であっただろう。大名小路は丸の内仲通りへと継承され、現在は高級店が並ぶ都内有数のショッピングストリートとなっている。一方、半島状の土地は「江戸前島」と呼ばれ、地形学的には日本橋台地という波蝕台地。自然地形ゆえ地盤も比較的強固で、高層ビルでも地下階があれば杭が不要な土地だ。そんな安定した土地には古くから人が住みついていたに違いない。地名の江戸とは「入江の門(と)」を意味し、江に面した場所で発展した集落の名が起源とされる。江戸前島で栄えていた湊町こそが「江戸」と呼ばれていたのだろう。

江戸前島には家康入国後、多くの舟入堀が築かれ、舟運による物流拠点として城下町の繁栄を支えていた。波蝕台地の尾根筋には東海道が敷設され、街道沿いには町人地が続いていた。そのいにしえの道が現在の銀座中央通りへと発展するわけだ。

さて、武蔵野台地の東端に位置していた江戸城。築城には武蔵野台地特有の凹凸地形が活用され、一部では大規模な改造も実施された。その結果江戸城は天下一の巨大な城郭となり、城下町は当時世界一の大都会へと発展する。『新編千代田区史』の「中世の江戸城内の地形復元」を参考に凹凸地形図で築城前の台地の形を表現してみた。

現在の皇居東御苑に江戸城の本丸そして天守閣があったが、その舌状台地の突端に立つのが富士見櫓。明暦大火で消失した天守閣に代わって、江戸城のシンボルとされた建物だ。実はこの場所、中世戦国時代に太田道灌が「静勝軒」と呼ばれる居館を置いた地でもある。二つの川に挟まれた要害の地に二人の武将は目をつけたわけだ。

冒頭で記したように土地の高低差や凸凹地形に着目することは、町の成立ちや歴史を紐解く助けとなる。そこで東京特有の地形と、歴史・文化の関係性を『東京スリバチの達人』にまとめ2020年末に昭文社より2冊同時刊行させていただいた。地形的観点で東京を知るガイド本として、ご利用いただけたら幸いだ。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに歩く専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
2020年末に『東京スリバチの達人』(昭文社)の北編・南編を刊行。
暗渠・階段・古道の情報を加えた『東京23区凸凹地図』(昭文社)を監修し同時出版した。

(ノジュール2021年2月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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