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御誕生1250年
伝説に満ちた空海の生涯
文=河合 敦 写真=田中和義
2023年に御誕生1250年を迎える弘法大師空海。唐から持ち帰り、空海が広めた学問・芸術・技術の数々は現代の礎になっているものばかりです。特別法要が行われるこの春、空海が入定する紀州・高野山へ――
官僚を目指した神童は
やがて仏門へ真言宗の開祖である空海は、宝亀5年(774)、豪族の佐伯田公〈さえきのたぎみ〉の子として讃岐国に生まれた。幼い頃から土で仏像をつくり、草で作った小屋に置いて拝んでいたという。7歳のとき我拝師山〈がはいしさん〉の岩崖にのぼり「身を捨てて人々を救いたい。願いがかなうなら命を救ってほしい」と身を投げたところ、天女が現れ、空中で空海を抱きとめたという伝承がある。
外舅で学者の阿刀大足〈あとのおおたり〉は、空海の才能を惜しんで朝廷に働きかけて大学に入学させた。空海が18歳のときのことだ。大学は中央官吏を養成する教育機関なので、通常、空海のような地方豪族の子は入れない。ここで好成績をおさめたら都の貴族になるのも夢ではないから空海も勉学に励み、眠くなると足に錐を突き刺し眠気を覚ましたという。しかし、やがて興味が仏教に移り、大学に行かずに各地で仏道修行を始めてしまう。そして、土佐国の室戸岬で神秘体験をする。御厨人窟〈みくろど〉で虚空蔵菩薩の真言を唱えていると、虚空蔵菩薩の化身である明けの明星(金星)が近づき、口の中に入り込んだのだ。この瞬間、空海は自分が仏と一体であると悟った。
31歳で空海は念願の留学生となり、遣唐使船で唐へ渡った。だが、船は暴風雨のために遥か南の福建省長渓県赤岸鎮〈せきがんちん〉に流されてしまう。遣唐大使の藤原葛野麿〈ふじわらのかどのまろ〉は、唐の役人に日本の遣唐使である旨を書面で伝えたが、役人は拙い文章を見て「海賊に違いない」と疑った。困り果てた葛野麿は、空海に文書の作成を依頼。役人は空海の文章の見事さに驚き、態度を一変させて一行を歓待したと伝えられる。
首都の長安に入った後、空海はさまざまな寺院をめぐって師を求め歩き、青龍寺で恵果〈けいか〉と出会う。恵果は「三朝の国師」とうたわれた密教の第一人者だったが、空海に会ったとき、「あなたが来ることはわかっていました。ずいぶん待ちましたよ」と告げたといわれる。
空海は、青龍寺東塔院で灌頂〈かんじょう〉を受けた。灌頂とは、高僧から法を受けるさい、頭に水を注ぐ密教の儀式だ。儀式の始めに曼荼羅(仏像を多数配列し仏教世界を表した絵)の上に花を投げる。念持仏(守護仏)を決定するためだ。空海は2度投げて2度とも大日如来(密教の最高仏で宇宙そのもの)の上に花が落ちたので、恵果は感嘆の声を漏らしたという。
空海は、恵果の教えをわずか数カ月で体得した。すると恵果は空海を後継者に任命、まもなく没した。そこで空海は「もはや唐で学ぶことはない」と2年ぶりに帰国したのである。