東西高低差を歩く関東編 第47回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

「俺たちの城」から「俺だけの城」へ

彦根城


イラスト:牧野伊三夫

彦根城(滋賀県彦根市)は国宝指定の現存天守や、ご当地キャラのひこにゃんの知名度もあり、季節を通じて訪れる人が後を絶たない。国内でも屈指の人気を誇る彦根城であるが、城が備えた「居住」そして「所有」という機能を考えるうえで重要なテーマを提供してくれるのだ。果たして城とは、「誰のもの」だったのだろうか。

彦根城の築城は、第一期工事と第二期工事の二段階に分かれる。第一期工事は関ヶ原の戦いから4年後の慶長9年(1604)に始まり、軍事的緊張が高まるなかで徳川方の西国最前線として実施されたものだった。工事は徳川政権が諸大名を動員したいわゆる天下普請であり、内堀によって囲まれた範囲のみが築かれた。そして第二期工事は、大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後の元和元年(1615)に始まるもので、こちらは彦根藩の単独事業であり、内堀の外側に中堀と外堀を増築して城下町建設も含む内容だった。

このようにして整備が進んだ彦根城だが、第一期と第二期の工事を通じて城としての中身に大きな変化が生まれている。大名と家臣たちがともに暮らした「俺たちの城」から、大名のみが特権的に空間を専有する「俺だけの城」に彦根城は生まれ変わったのだ。

まず第一期工事の段階では、内堀の内部に主君である大名(井伊家)と家臣の両者がともに屋敷を構えていた。つまりこの段階を居住の側面から見れば、大名と家臣が城を共同所有するような性格といえ、大名と家臣にとっては「俺たちの城」のような連帯感のある構造だった。

ただし、天守がそびえ立つ山(彦根山)の上に邸宅(本丸御殿)を構えたのは大名のみで、家臣たちは内堀の内部とはいえ山の下に屋敷が置かれていた。城が立地する山の上下で、地形高低差がそのまま大名と家臣の序列を表していたと見てよいだろう。加えて、大名が居住した山の上にのみ壮大な高石垣が積み上げられ、家臣が居住した山の下は土塁主体の簡素な造りとなっていたことも見逃せない。みんなで一緒に暮らす「俺たちの城」ではあるが、大名と家臣によって形成された集団の内部では、大名を頂点にした集権的な上下秩序が意識されていたと考えられる。

このように、連帯と集権の両側面が意識された第一期工事の彦根城は、相互契約による水平的な連帯を基本としながら、大名が家臣から仰ぎ見られる集権的な上下秩序を実現していた戦国大名の家中構造を受け継いでいたと評価してよいだろう。ここから中世の余韻が残る当時の状況を感じたい。

そうした構造を一変させたのが第二期工事である。この段階において、彦根城の内堀の内部は大名の専有空間に変貌した。それまで山の下とはいえ大名同様に内堀内部に屋敷を構えていた家臣たちは、第二期工事を通じて一斉に内堀外部に出され、新たに設けられた広大な武家屋敷地区(武家町)に居を構えることになった。

それまで家臣たちの屋敷があった内堀内部の山の下には、大名の邸宅(表御殿)が新築され、大名の居住空間は手狭な山の上から移転することになった。また内堀内部の他の空間には、徳川政権からの預かり米を貯蔵した倉庫群も新たに設けられていく。

ここにおいて、大名のみが暮らして城を専有する「俺だけの城」が完成したのだ。それはまさしく、彦根城が中世城郭から近世城郭に脱皮を遂げた画期だったのだろう。

城をめぐる大名と家臣の居住と所有の変遷だが、実は彦根城に限らない。日本列島から戦争が消えた17世紀を通じて、「俺たちの城」から「俺だけの城」への変化が各地で生まれていた。金沢城、名古屋城、さらに江戸城など、中世社会から近世社会への移行に伴うかのように、内部から家臣の屋敷を排除しながら大名にとって特権的な空間に性質を変えていった。反面、城の内部に家臣たちの屋敷が残り続けた福岡城や佐賀城のような例もあり、奇しくも両城が藩内部の不協和音が激化した「お家騒動」(黒田騒動と鍋島騒動)の舞台となったことも興味深い。城は社会の映し鏡だったのだ。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。
NHKのテレビ番組『ブラタモリ』では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2023年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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