東西高低差を歩く関西編 第51回
地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。
紫式部が想像した物語の地形
京都・宇治
イラスト:牧野伊三夫
宇治(京都府宇治市)は京都盆地の南東隅にあり、宇治川が山間部から盆地平坦部に差し掛かる位置に立地している。著名な古典作品『源氏物語』の「宇治十帖」は、まさにこのような宇治の環境を背景にして物語が進んでいく。
改めて「宇治十帖」とは、紫式部を作者とする『源氏物語』の長大な物語のうちで最後半部分を通称したものであり、物語前半・中盤の主人公光源氏の死後、第二世代の若者たちの群像を描いたものだ。このうちの主要人物が、光源氏の妻が不倫によって産んだ薫である。薫は宇治に逼塞〈ひっそく〉する悲運の女性大君〈おおいぎみ〉を愛するようになるが、大君の衰弱死によって彼の思いは成就せずに終わる。このような薫たちの物語は、宇治川の左岸(西側)と右岸(東側)を行き来する形で展開する。まず薫であるが、彼が平安京から宇治に向かう際は、光源氏から嫡子夕霧〈ゆうぎり〉に相続された別荘に逗留した様子が記されている。「六条院より伝はりて、右大殿〈みぎのおほとの〉しりたまふ所は、川よりをちにいと広くおもしろくてあるに」(六条院[光源氏]から相続して、右大臣[夕霧]がお持ちになっている別荘は、宇治川より向こうにまことに広く風情のあるところで)『源氏物語』の文中で宇治川左岸は一貫して「宇治川の向こう側」と記されるため、薫が逗留した別荘はおそらく現在の平等院に相当する場所だろう。平等院は『源氏物語』の執筆時に藤原道長の別荘であったから、当時の状況にも符合する。
反対に、薫の愛した大君が寂しく暮らした宇治の山荘だが、宇治川の右岸に位置していたようだ。物語では薫の位置から「船で棹〈さお〉を一回差し渡せば到着する距離」とあるので、薫のいる左岸から指呼の間にある、すなわち対岸の宇治川右岸と判断して差し支えないだろう。さらに、山荘のしつらえについても記述がある。「水にのぞきたる廊に造りおろしたる橋の心ばへなど、さる方にいとをかしうゆゑなる宮なれば」(川水に臨んだ廊のところに水辺に造りおろした橋の作り様などが、それなりにまことに風情もあり奥ゆかしいお邸なので)没落したとはいえ皇族に連なる大君の山荘は、邸宅から宇治川に向かってそのまま船で出入りできるような風情がこらされていたようだ。素直に読む限り、この山荘は宇治川から高低差なく連続した立地と想定できる。
一方、ここで現実世界に戻ろう。現在の平等院の対岸である、宇治川の右岸には河床から約7mもの「崖」が連続しているのだ。これは宇治川の侵食作用によって生まれた段丘崖であり、とても物語で書かれたような山荘と宇治川をシームレスにつなぐ建物が立地できるような地形環境ではない。むしろ薫の別荘に相当する現在の平等院こそが、宇治川と同一平面で連続する環境に立地しており、実際に平等院へ船で着岸した貴族たちの古記録も残っている。
どうやら物語作者である紫式部は、宇治川の左岸にあった藤原道長の別荘の情景をもとに、非運の女性が暮らす架空の山荘を右岸に設定したようだ。おそらく紫式部は、宇治川東側の右岸には実際に足を運んでいないのだろう。いわば、想像から生まれた「物語の地形」のなかで、「宇治十帖」は書き進められていったのだ。しかし紫式部は、ただ想像においてのみ物語を生み出したのではないだろう。注目は、物語執筆の背景となる彼女の教養に関するものだ。紫式部は当時の女性には珍しく漢文で記述された史書『日本書紀』を読みこなしていたことが、彼女の日記『紫式部日記』に記されている。ここで気になることは、『日本書紀』(仁徳天皇即位前紀)に登場する菟道稚郎子〈うじのわきいらつこ〉である。彼は皇位継承争いの悲劇的な敗者であり、死後は「莵道〈うじ〉の山の上」に葬られていることから、今も仏徳山〈ぶっとくやま〉・朝日山が連なる宇治川右岸をゆかりの土地と平安時代人は考えていたのだろう。
薫が愛した大君は、大君の父親である宇治八の宮が光源氏との権力闘争に敗北したために、宇治川の右岸に逼塞することになった。敗者(宇治八の宮)の右岸と勝者(光源氏)の左岸。現実の地形環境とは別の次元で、紫式部は物語のリアリティを宇治川両岸の風景に見出していたのだ。
梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。
NHKのテレビ番組『ブラタモリ』では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。