河合 敦の日本史の新常識 第40回
かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。
室町時代から酒税はよい税源だった!?
にごり酒から始まった
日本のお酒
イラスト:太田大輔
本人はお酒に弱い民族だといわれる。身体に入ったアルコールは肝臓で毒性の強いアセトアルデヒドに分解されるが、さらにこのアセトアルデヒドを安全な物質に分解してくれるのがALDH2(アルデヒド脱水素酵素2)である。ところが日本人の約四割はこの酵素があまり活性化しない。このためお酒を飲み過ぎると、分解しきれなかったアセトアルデヒドのために吐き気や頭痛がしてくるというわけだ。
しかしながら、最初にお酒と日本人に触れている『魏志倭人伝〈ぎしわじんでん〉』(三世紀前半の日本の様子を記録)には、「人性酒を嗜む」とある。意外にも当時の日本人は酒好きが多かったらしい。もちろん、飲んでいたのは日本酒だろう。日本酒の起源ははっきりしないが、大陸からやって来た渡来人が、稲作とともに酒の製法を伝えたと考えられている。
日本酒は、蒸した米に麹菌(種麹)をふりかけて米に麹をつけて発酵させ、それに酵母菌を加える。そして、その液体が酸化する前に加熱して殺菌し、藁灰をまぜてアク汁を沈殿させたりして作る。なお、日本酒というと透き通った清酒を思い浮かべるが、清酒の誕生は江戸時代前後のことだとされ、古代の日本酒はにごり酒である。
日本酒は温めて飲むという、ほかの酒にはあまり見られない慣習がある。日本酒は、杉に含まれるフーゼル油が防腐剤の役目を果たすので杉樽で保管することが多い。ただ、このフーゼル油は二日酔いの原因。そこで酒を温めて除去していたのだ。ただ近年、この説は科学的な根拠に乏しいそうだ。なので、真の理由はわからない。
ところで古代は、仏教の影響もあってたびたび禁酒令が出されている。弘仁二年(811)、嵯峨天皇も「庶民が魚を食べ酒を飲むのは身分をわきまえない行為だ」として厳禁している。さらに、飲酒は羽目を外すから禁止するという法律が、天平宝字〈てんぴょうほうじ〉二年(759)に出された。「酒宴を開くと、政治をそしり、節度をはずしてケンカになるので、祭礼や病を治す医薬として用いる以外に飲んではならぬ」というお達しだ。貞観八年(866)にも、争乱のもとになるとして十人以上集まっての群飲が禁ぜられた。どうやら古代人も、酒の席で悪酔いして揉め事を起こしたらしい。ちなみに酒宴は、昔からよからぬ謀議や企みにも使われてきた。有名なのは鹿ヶ谷〈ししがたに〉の陰謀だろう。安元東山三年(1177)六月一日、京都の俊寛〈しゅんかん〉の山荘がある鹿ヶ谷で、後白河法皇の近臣や味方の武士が酒宴にかこつけて平氏打倒の密議をおこなった。その際、皆が悪酔いして乱れた。この体たらくを見て「これでは平氏を倒すのは無理だ」と悟った多田行綱〈ただゆきつな〉が、計画を平氏方に密告したという。結果、関係者は捕縛されてしまった。
そんな平氏を倒したのが源頼朝だが、嫌な酒の飲み方をしたという。相手に飲ませて気分を大きくさせ、本音を喋らせるのだ。例えば、安田義定〈やすだよしさだ〉はつい、勝田成長〈かつたしげなが〉が「頼朝の許可を得ずして朝廷から玄蕃〈げんば〉の助に叙されたのがうらやましい」と言ってしまった。頼朝はこの話をしっかり覚えており、後日、成長にその職を返上させた。
鎌倉幕府の五代執権・北条時頼は「酒は武士の気風を退廃させ、社会の害悪になる」として建長四年(1252)に酒の販売を禁止した。さらに家に置く酒壺は一つと定め、鎌倉中の民家を回り一壷残してすべての酒壺を破壊させた。このときの調査では鎌倉に3万7千274の酒壺があったという。
時頼の曾孫で幕府の最高権力者・北条高時は、部下に政治を一任し、昼間から酒盃を片手に、犬合せ(闘犬)や田楽(農耕儀礼から発達した歌舞)にうつつを抜かしていた。あるとき高時が、酔いにまかせてでたらめな田楽を一人で演じていたところ、どこからともなく十数人の田楽法師〈でんがくほうし〉が現われ、高時と共に踊り出した。この様子に不気味さを感じた侍女がしばらくして部屋を覗いてみると、踊っていたのは天狗や妖怪だった。仰天した侍女はすぐさま人を呼び、安達時顕〈あだちときあき〉が駆けつけると部屋には酔いつぶれた高時が一人寝転がっているだけだった。それからまもなく幕府が滅んだので、人々はこの出来事は滅亡の前兆だと言い合った。これは『太平記』に載録されている話だが、史実と思えない。けれど酒で身を滅ぼすことを当時の人びとも理解していたのだろう。
室町時代、酒屋は非常に儲かったようで、その利益で高利貸(土倉)をする店が多かった。京都では、応年32年(1425)に342軒の酒屋が存在したが、そのうち300軒近くが土倉を兼ねていた。室町幕府はこうした酒屋から莫大な税をせしめていた。現代も酒税はよい税源だが、昔も同じだったわけだ。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東 京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲 田大学大学院修了後、大学で教鞭を 執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テ レビ番組『歴史探偵』『号外!日本史ス クープ砲』出演のほか、著書に『平安 の文豪』(ポプラ新書)