[エッセイ]旅の記憶 vol.31

ヒマラヤへ。

石川 直樹

今年もヒマラヤへ向かう季節がやってきた。2011年頃から、春になるとぼくは必ずネパールに行ってエベレストへと続く山道を歩いてきた。だから、クンブー地方に咲く山桜を見ることはあっても、この数年間は日本で春を迎えたことがなかった。しかし、今年はめずらしく日本にいて、春どころか梅雨の雨音さえも聞いている。

今年はK2という、世界で2番目に高い山に登る。K2のあるカラコルム山脈の登山シーズンは、春ではなく、夏なのだ。遠征に出かける6月13日までは日本で過ごし、ヒマラヤの村々のことを思う。地震のことを考えると胸が痛い。ネパールに暮らす多くの人たちに助けられて、ぼくは山に登っている。だから、エベレスト街道沿いの村は、建物の崩壊は見られるものの人的被害が少なかったと聞いて多少はほっとした。が、一刻も早く彼ら彼女らが以前の笑顔を取り戻すことを心から願っている。この地震がきっかけで、エベレスト街道へ行くことを躊躇している人がいたら、中止せずに是非現地に行ってほしい。クンブーに住む人たちにしてみれば、観光客がいなくなることのほうがよほど生活を圧迫するのだから。

エベレスト街道を何度訪ねても飽きないのは、ヒマラヤ山脈の存在が、自分にとってあまりにも魅力的だからだろう。氷雪に抱かれた遙かなる峰々を眺めているだけで、時間が経つのを忘れる。

山桜が咲く道を進み、チベット仏教の経文が彫られたマニ石や、原種に近い野菜が生育する小さな畑を通り過ぎる。さらに標高をかせいで森林限界も越えていくと、岩と氷の世界に入る。

すると、あたりからヤクの首につけられた鈴の音が聞こえはじめ、「ああ、ヒマラヤに来たんだな」と感じる。ぼくにとって、ヤクの鈴の音は、ヒマラヤへ入り込む合図なのだ。

ヤクは、高所で力を発揮し、低所ではぐったりしている。寒さには滅法強く、暑さにはどうしようもなく弱い。背中に載せた荷物は静かに運ぶが、人間が乗ろうとすると暴れ出す。静かだけど、強く、大きいけれど気弱。ぼくはそんなヤクが好きだ。動物の中では、世界で一番好きかもしれない。

ブータンでもムスタンでもネパールでもチベットでも、ヤクに出会った。今から訪ねるカラコルムでもヤクに会えることを期待している。あの鈴の音がどこかから聞こえてくる遠い世界へ行きたい。都市に降り注ぐ雨を横目に一息ついていたいと思う自分と、寒くて苦しいヒマラヤのキャンプでヤクと共に過ごしたいと願う、二つの気持ちが入り乱れている。K2へ向かう夏は、目前だ。


写真:大川裕弘

いしかわなおき●1977年東京都生まれ。写真家、冒険家。東京藝術大学大学院美術研究科博士課程修了。
2000年、Pole to Poleプロジェクトに参加して北極から南極を人力踏破、2001年、七大陸最高峰登頂達成。
写真集『NEW DIMENSION』『POLAR』により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞、『CORONA』で土門拳賞を受賞。
最近では、ヒマラヤ8000m峰の連作写真集『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』を刊行。
最新刊は、2014年アーティストの奈良美智氏と旅したサハリンでの作品を中心に収録した『SAKHALIN(サハリン)』。

(ノジュール2014年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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