河合 敦の日本史の新常識 第62回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

世嗣を生むためだけじゃない!

女性たちが活躍した奥向


イラスト:太田大輔

今回は、大名の「奥」について詳しく語ろうと思う。江戸城の大奥は有名だが、実は大名屋敷にも大奥と同じように、藩主(大名)の正妻や側室、子どもが暮らしている一角がある。これを奥、奥向〈おくむき〉、奥方などと呼ぶ。近年、こうした奥向の研究がかなり進んでいる。

江戸時代、大名の正妻や嫡子は、江戸の大名屋敷に住む義務があった。大名屋敷は上屋敷、中屋敷、下屋敷(蔵屋敷)などに大別されるが、たいていは幕府から拝領した江戸城に近い上屋敷で藩主と一緒に暮らしていた。

上屋敷は、大きく2つの区画に分かれている。1つは、役人の詰め所があり、藩主が政務や儀式を行う表向〈おもてむき〉。そして、もう1つが奥向。藩主の生活・休息の場で、妻子が暮らす空間だ。

奥向には藩主の妻子のほか、奥女中とよばれる女性たちがいた。男性の家臣と同じように職務に従事し、俸禄をもらった。男性と異なるのは、一代限りの家来であり、実家を出て個人で大名屋敷に住み込んで働いていることだ。

奥女中は、大きく3つの系統に分かれている。役女、側〈そば〉、下女である。役女は奥向の事務・管理など実務を担当したり、幕府や他大名家との連絡や交渉を行ったりする者たち。役女のトップは、御年寄や老女とよばれ、正妻のもとで奥向全体を取り仕切った。

側は主人(藩主や正室)の日常の世話をする者たちで、彼女たちが目指したものは側室(側妻)の地位に着いて藩主の家族として認知されることであった。ただ、藩主の子どもを産めば側室になれるわけではなく、人によっては家臣の妻として払い下げになったり、そのまま奥女中の仕事を続けたりする者がかなり多かったことが分かっている。

最後の系統が下女。役女や側のもとで雑務に従事する下級の奥女中だ。ただ、自分のがんばりや才覚で昇進が可能だった。奥女中は武家の出身者が多いが、一番低い階級からスタートした町民や農民の娘が、長年の奉公の末、奥向のトップに立った例は少なくない。

意外なことだが、奥向には男性役人も働いていた。しかし、藩主の妻子や奥女中とは、活動空間が完全に区分されていた。こうした男子禁制の空間が奥向に作られたのは、豊臣秀吉の時代からだった。奥女中の不品行が多発したため、秀吉は慶長2年(1597)に掟十三カ条を発し、大坂城内にある表御殿と奥御殿をつなぐ鉄門の出入りを厳重にしたり、秀吉の留守中は10歳以上の男子を奥御殿に入れることを禁止したりした。

奥向の重要な役割は、大奥同様、藩主の血を引く子どもを出産・養育することにあった。さらに、幕府や大名家と交際し、良好な関係を保ったり、非公式な外交(内証)ルートで藩主の希望をかなえたりする仕事も担っていた。

後者について、鳥取藩の例を見てみよう。鳥取藩祖・池田光仲は、父で岡山藩主の池田忠雄(輝政の息子)が31歳で没したとき、まだ幼児だった。本来なら御家断絶もありえたが、鳥取藩32万石への転封を認められた。その裏には振姫〈ふりひめ〉の助力があったと考えられる。振姫は、光仲が紀州藩主の娘・茶々姫を正妻に迎え入れる際も、重要な役割を担っている。

実は振姫は輝政の次女で、光仲にとって叔母にあたった。しかも家康の娘・督姫〈とくひめ〉を母とし、のちに将軍・徳川秀忠の養女になり、仙台藩2代藩主代・伊達忠宗の正室になっていた。ゆえに、幕府や大奥につてがあり、甥のために一肌脱いだのだろう。

ところで、振姫が嫁ぐとき、多くのお付きの奥女中や家来が仙台藩上屋敷に入っていった。その数は不明ながら、同じく秀忠の養女・喜佐姫が萩藩主・毛利秀就〈ひでなり〉に嫁ぐ際、90名近い従者が付いていったので、ほぼ同程度の人数が仙台藩の奥向に入ったはず。そして以後は、振姫付きの奥女中たちが仙台藩の奥向を運営、仕切ることになるのだ。

万治2年(1659)に振姫が死去すると、お付きの奥女中は江戸城へと引き上げていった。このように大名家の奥向は、正妻の実家の影響が大きい。ならば、高い地位の大名や公家を正妻にして政治力を発揮してもらうのが得策だ。一番は、将軍の娘や養女を正妻にもらうことであろう。特に、大奥は原則、徳川一族や徳川と姻戚関係を結んだ大名でなければ交際をしなかったので、多くの藩が将軍家との縁組みを求めた。

例えば先の鳥取藩は、8代藩主・池田斉稷〈なりとし〉に男児ができぬとして、将軍・徳川家斉の子・乙五郎を婿養子にすることに成功。のちに斉衆〈なりひろ〉と称したが、彼が世嗣になったことで池田家の奥向と大奥の交際は活発化し、数々の恩典がもたらされた。残念ながら斉衆(乙五郎)は藩主になる前に死去したが、池田家はいったん構築した大奥とのコネクションを手放さず、その後も頻繁な交流を続けたのである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)。

(ノジュール2025年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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