東西高低差を歩く関東編 第22回
地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。
東京砂漠のオアシス!?
井の頭池とその周辺
イラスト:牧野伊三夫
土地の高低差には、地球規模での地殻変動に起因するものの他に、流水による侵食・堆積作用の結果うまれたものがある。前回の関西編では、京都の構造的な地形が紹介されたが、今回は水のつくった地形を取り上げたい。東京の場合、地形の起伏や高低差は川の流れによるものがほとんどだが、特筆すべきは何といっても湧水がつくったスリバチ状の窪地の存在である。筆者は東京スリバチ学会を立ち上げ、その紹介を続けているが、代表的事例として今回挙げるのはJR吉祥寺駅南に位置する井の頭池。武蔵野台地面には大きな川がなく水利に乏しい土地柄だが、清水がコンコンと湧く(湧いた)井の頭池とはまさに武蔵野台地のオアシス的存在だ。
井の頭池は、井(=水の出る場所)が多く見られたことから「七井の池」とも称され、豊富な湧水が池を満たしていたのだが、1960年代以降その湧水量が激減してしまった。都市化によって地中にしみ込む雨水が減ったことが原因で、現在は8本の井戸から地下水を汲み上げ、1日約3500トンの水を放流し水質を維持している。
歴史的にも、江戸の町の成り立ちを支えたのは井の頭池の存在だった。池から溢れた水は、神田川となって東へ流れるが、その水を利用したのが1629年(寛永6)に完成した神田上水。自然河川・神田川の水を目白台下関口大洗堰で取水し、掛樋(水道橋)で御茶ノ水渓谷を横断、真水が得にくかった神田や日本橋エリアの水需要をまかなった。徳川家康が江戸に入府した際、すでに賑わいをみせていた神田エリアは臨海部ゆえ井戸水には塩分が含まれ、飲み水の確保には苦労していた。そんな住民に絶賛されたのが神田上水というインフラであり、1898年(明治31)に近代水道の設備ができるまで利用され続けた、地域にとってのまさに誇りであった。
武蔵野台地の特徴として、標高50m付近の井の頭池以外にも、善福寺池や妙正寺池、三宝寺池、大泉井の頭池など湧出による池の存在がある。このうち善福寺池と妙正寺池からの流れが神田上水に利用されたわけで、武蔵野台地のオアシスが連携して江戸の町の繁栄を支えていた。
また、井の頭池は江戸近郊の行楽地として、かつては多くの人が市中から日帰りで参拝に訪れた。池の小島に祀られた弁財天には、神田上水の恩恵を受けた商人や町人たちが寄進した石階段や石橋、石灯籠が今でも残されている。神田川の水を介して、江戸下町と武蔵野台地のオアシスが結ばれていた証だ。
さて、凹凸地形図には井の頭池の南でゆらゆらと蛇行する玉川上水の流路が描かれている。玉川上水とは、神田川の流量とは桁違いの大河・多摩川から水を取り込んだ上水施設。江戸の人口増加に対処すべく1653年(承応2)に通水を開始した。取水口のある羽村から東へ流れ、四谷大木戸へと至る全長約43㎞、標高差はおよそ92mの水路だ。自然流下で少しでも遠くに水を供給するために、武蔵野台地の尾根筋(稜線)を辿っているのが特徴で、野火止用水や仙川用水、品川用水、三田用水など多くの分水が可能となり、開墾が進まなかった武蔵野の村落を潤した。不毛だった台地に水のネットワークが築かれたことで、当時の居住人口で世界一を誇る、江戸の発展が支えられたのだった。
なお、井の頭池のある標高50m付近は武蔵野台地の土地の傾斜の転換点でもあり、ここより東は傾斜が緩くなり、湧水スポットも多くなる。すなわち、スリバチマニアにとっては大好物のフィールドのはじまりでもある。
皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに歩く専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
2020年末に『東京スリバチの達人』(昭文社)の北編・南編を刊行。
暗渠・階段・古道の情報を加えた『東京23区凸凹地図』(昭文社)を監修し同時出版した。