東西高低差を歩く関東編 第38回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

高低差に守られた異世界

吉原


イラスト:牧野伊三夫

江戸最大の遊興地であり、江戸唯一の官許の遊郭だった吉原。一般的に紹介される吉原は、明暦3年(1657)に治安や風紀上の問題から、浅草寺北西の辺鄙だった地(現・台東区千束)へと移転した「新吉原」を指す。吉原で育まれた文芸や歌舞伎などの文化は、様々な書籍で紹介されているので本稿では省略し、ここでは地形の高低差に着目して新旧の吉原を紹介してみたい。

まずは新吉原の地形について。新吉原の立地は、千束池とも称された湿地帯に土盛りをし、造成された土地だった。千束池とは浅草湊が立地した自然堤防と上野の台地に挟まれた後背湿地にあたり、一帯は宅地化が遅れ、水田が広がるのどかな農村地帯だった。造成された新吉原の周囲は「お歯黒どぶ」と呼ばれる水路に囲まれていたが、そう呼ばれたのは遊女たちがお歯黒の汁を捨てたため。水路は建設当初10mほどの幅があり、盛土が侵食されるのを防ぐ役割もあった。

現代の凹凸地形図でも、新吉原が立地した場所が、周辺よりもわずかに高いことが見て取れる。現地に行くと土地の高低差が実感できる。水田に囲まれた光り輝く不夜城は、高低差に守られたまさに別世界・異世界の趣であったに違いない。

新吉原の北に連続する細長い微高地は、日本堤と呼ばれた江戸時代に築かれた堤防(土手)。堤防の足元には治水対策で山谷堀がつくられていた。日本堤は隅田川の氾濫から浅草を守る目的で築かれたものだが、現代の治水のように川の両岸に堤防を連ねる手法と異なり、本流から距離をおいた場所に築かれた点に注目したい。エリアを限って洪水をある程度は許容する、自然の驚異に対し、柔軟で寛容な設計思想があったからだ。

日本堤は新吉原へと通じるアクセス道の役割も兼ねていた。日本橋柳橋から山谷堀までは船で大川(隅田川)を遡上し、徒歩あるいは駕籠〈かご〉で新吉原へ向かうというのが一般的なルートであった。『土地の文明』など、地形に関する著書も多い竹村公太郎氏は「人を歩かせることで、堤防の土を踏み固めさせる効果を狙ったのではないか」とするユニークな説を紹介している。

日本堤の土手は元々今よりも高かったらしく、新吉原へは坂を下って入場した。その坂の名は袖降坂。坂を下りると見返り柳があり、その先にあったのがS字形の五十間道。道を進むと吉原唯一の入口だった吉原大門が構えていた。S字形の道と郭内の区割りは健在で、現在は日本有数のソープランド街となっている。

それでは移転する前の吉原について紹介したい。移転前、すなわち元吉原があったのは、現在の日本橋人形町で、人形町駅の近くに「大門通り」が残る。江戸に散在していた遊女屋を一か所に集め、幕府公認の遊郭として営業を始めたのが元和4年(1618)で、大門を構えて郭をつくる遊郭の形態はこの地で生まれた。新吉原と同じく湿地を埋め立てて造成された土地で、葦の生い茂る湿地帯であったことから当初は「葦原」と記された。その後の寛永3年(1626)に吉原と改名された。ちなみに湿地を好む「葦」の本来の呼び名はアシであったが、「悪し」に通じるため「ヨシ」と言い換えられた。

遊里に関する著者も多い渡辺憲司氏(立教大学名誉教授)は、元吉原の盛り土は饅頭のように丸い形だったと推測している。そこに十字の道を付けた轡〈くつわ〉型で、それが郭の語源になったと説明している。

新吉原と元吉原、どちらも町はずれの湿地帯を土盛りして、造成によって生まれた別世界であった。水路に囲まれ高低差に守られた浮島のような地で、花開いたその文化が約350年間存在していた。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京スリバチ地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北編・南編』(昭文社)などがある。
2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行した。

(ノジュール2022年12月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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