東西高低差を歩く関東編 第46回
地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。
~知られざる名瀑の都 その1
不動の滝
イラスト:牧野伊三夫
東京には数多くの滝が存在している。土地の高低差に恵まれた東京は、知られざる名瀑の都でもある。それらは江戸期から観光名所として浮世絵の題材としても描かれてきた。その代表的なものが「不動の滝」と呼ばれるもので、その名は滝の傍に不動明王が祀られていることに由来する。特に有名なのが歌川広重の「王子不動の滝」で、落差ある豪快な滝と、その下で涼を取る人々の様子が描かれている。
不動滝は全国的に存在し、日本で一番多い滝の名なのだそうだ。滝と不動明王の結びつきは、今一つはっきりしないのだが、不動明王の激しい怒りの表情が滝の荒々しさに通じるものがあるから、と解釈されたり、滝修行が盛んな日本の宗教や修験道のなかで結びついたとする説など様々である。
不動明王は大日如来の化身といわれ、起源はインド神話のシヴァ神とされている。サンスクリット語の「アチャラ(動かない)ナータ(守護神)」という名前から不動明王と訳された。「揺るぎなき守護者」といったところだろうか。憤怒の表情は、怒りをもって煩悩を抱えた人たちを救済するためで、右手に持つ倶利伽羅剣〈くりからけん〉は、よこしまな心や迷いを断ち切る意味がある。左手に持つ羂索〈けんさく〉と呼ばれる網は、悪を縛り上げ、煩悩を断ち切れない人たちを正しい方向に導く意味があるのだそうだ。怒った表情とは裏腹に、実は慈悲深い仏様だが、悟りを開いた後の安らかで穏やかな表情をして仏像のなかでは珍しい存在だ。
都内でよく知られた不動の滝のひとつが深大寺のもの。深大寺は国分寺崖線を背にして立つ天平5年(733)開創の古刹だ。山門の横に落下音を響かせる二列の滝がある。龍の口から流れ落ちる水は湧水を導いたもので、関東ローム層下部にある砂礫層から湧く地下水を活用している。滝行も行われた流れ落ちる水は、現在は補水を行っているとのことだが、深大寺境内では深沙堂〈じんじゃどう〉裏手ほか、多くの箇所で豊富な湧水が今でも見られ、流れ出た水は隣接する水生植物園に注いでいる。
深大寺不動の滝と同様に龍の口から流れ落ちる水で有名なのが目黒不動尊の独鈷〈とっこ〉の滝。目黒不動尊は約1200年前、慈覚大師によって開かれた天台宗の古刹だ。寺伝によれば、大師が堂塔建設の敷地を占うために独鈷(法具)を投げたところ、そこから滝泉が湧き出したのだという。現在でも二つの龍の口からなかなかの水量が流れ落ちている。古くから水垢離の場でもあった。滝の仕掛け(構造)は深大寺のものと同じだ。
人知れず住宅地のなかにある不動滝も面白い。板橋区成増台の崖下にあるのが赤塚不動の滝で、江戸時代に流行った大山詣や富士講の旅に出る人々が身を清めるための禊場としても活用された。立地特性は他の滝と同様である。
ユニークなのが等々力不動の瀧。そもそも等々力の地名は、滝の音が渓谷に「轟いた」ことに由来する。等々力不動尊は平安時代からの霊場で、各地から修行僧が滝行に訪れたのだという。龍の口から水が流れ落ちる二つの滝の他にも、露わになった崖の表面、岩盤(不透水層)上部から湧水が滴り落ちる様子が観察できる。崖が露わになっているのは「河川争奪」によるもの。河川争奪とは、国分寺崖線から湧き出た水が、谷頭侵食によって台地を刻み続け、やがては台地上の流れていた川の水を奪ってしまう現象をいう。台地の川(九品仏川)の水が、一気に崖下へと流れ込んだため、激しい侵食作用によって生まれたのが等々力渓谷なのだ。清涼な空気の中にいると、東京にいることを忘れさせてくれる名所だ。
さて、冒頭で紹介した広重の「不動の滝」と比べ、現在都内で見られる滝は高低差も少なく水量もさほど多くはない。江戸時代は今よりも自然が豊かだったとはいえ、浮世絵に描かれたような大迫力の滝がかつては本当に存在したのだろうか。不動の滝があったとされる正受院(滝不動)に行っても、その痕跡は皆無で納得のいかない点が多い。次回はそのモヤモヤとした謎に迫ってみたいと思う。手掛かりはやはり土地の高低差だ。
皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。
専門は建築設計・インテリア設計。