河合 敦の日本史の新常識 第36回
ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。
性格の不一致で離婚?!
勝気に我が道を歩いた清少納言
イラスト:太田大輔
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」
これは『枕草子』の第一段の冒頭部分。学生時代に授業で暗記させられた方も多いだろう。いうまでもなく作者は清少納言〈せいしょうなごん〉。一条天皇の中宮(皇后)である定子に仕えた女房である。
歌人として有名な下級貴族・清原元輔〈きよはらのもとすけ〉の娘として生まれた清少納言は、十六、七歳の頃に一つ年上の橘則光〈たちばなののりみつ〉と結婚した。則光は、花山〈かざん〉天皇の乳母子だった関係から院司(直属の職員)をしていたという。翌年、二人の間に息子(則長)が生まれたが、結婚生活は十年ほどでピリオドを打った。離婚原因は、性格の不一致だった可能性が高い。『今昔物語集』によれば、則光は兵の家に生まれたわけではないが、豪胆で身体が強く、盗賊三人に襲われた際、直ちに斬り殺したという。このため、のちに左衛門尉検非違使〈さえもんのじょうけびいし〉に叙されている。現代でいう警察官だ。
一方の清少納言は、知的で漢学(中国の学問)の教養が深く、頭の回転も速くて相手の問いかけに、すぐにユーモアがある気の利いた言葉や歌を返した。例えば、こんな話がある。雪が降り積もった朝、清少納言は御格子を下ろしたまま女房たちと雑談をしていた。そこに定子が現れ、「清少納言よ、香炉峰〈ころうほう〉の雪はどんなであろうか」と語りかけてきたのだ。清少納言はとっさに御格子を上げさせ、御簾を巻き上げた。白居易〈はくきょい〉(白楽天)の漢詩に「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」という一節があったからだ。こんな感じだったから、文系の清少納言と体育会系の則光とでは、なかなか話がかみ合わなかったはず。
でも不思議なのは、離婚後も二人が仲良しだったことだ。則光は、宮中では清少納言を妹と呼び、周囲にその才女ぶりを自慢し、ときおり彼女のもとを訪問している。清少納言も則光を「せうと(兄の意味)」と称していたようだ。ある時期、清少納言が宮中を離れ田舎に引っ込んでいた。すると藤原斉信〈ふじわらのただのぶ〉が則光に清少納言の居所をしつこく尋ねてきた。斉信と清少納言は互いに教養の深さに惹かれあい、性別を超えた交流をしていたとされる。そこで則光は清少納言に「斉信にあなたの居場所を教えてよいか」という手紙を送った。
これを読んだ清少納言は、ワカメの切れ端を包んで則光に送りつけた。以前、則光がワカメをほおばって返事をごまかしたと聞いたので「今回も同じように言わないで」という意味だった。
ところが則光は、「変なものを包んで送るなよ。何かの間違いか」と全く理解してくれない。そこで仕方なく、説明する歌を書いて差し出したら、「そんな歌なんか俺は見ない」と腹を立ててしまったという。
こんな文学的なセンスのない男だったので、清少納言は愛想を尽かしたのだろう。
清少納言が宮仕えを始めたのは、二十八歳頃のことだったとされる。まだ再婚ができる年齢だったし、働かず実家や兄姉の世話になる選択肢もあった。でも、彼女は自分の可能性を試してみたかったようだ。
宮中に入って程なく、清少納言は二十人ほどいる定子の女房衆のなかで頭角を現していった。これは生来の負けん気の強さも関係しているように思える。
あるとき、清少納言が柱にもたれて女房たちと談笑していると、いきなり定子が紙を投げてよこした。それを開いてみると、「思ふべしや、否や。人、第一ならずはいかに(あなたのことを愛してあげようか。でも一番じゃなければだめですか)」と書いてある。
どうやら清少納言が日ごろから「オンリーワンではなくナンバーワンになりたい」と豪語していたのを定子がからかったらしい。これに対して清少納言は、「すべて、人に一に思はれずは、何にかはせん。ただいみじう、なかなか憎まれ、あしうせられてあらん。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ(すべて人から一番だと思われなければ嫌だし、意味がない。一番になれないのなら、みんなから憎まれたほうがいい。二番や三番になるくらいなら死んだ方がまし。とにかく一番でいたい)」と返答したという。彼女の勝ち気な性格がよくわかるだろう。
ある日、定子は兄の伊周〈これちか〉からもらった大量の草子(紙)を「これに何かを書いたらどう」と清少納言に下賜した。そこで彼女は、「目に見え心に思ふ事を、人や見んとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたる」と田舎に籠もっている間に文章を書き連ねた。これが『枕草子』である。ところが、清少納言の屋敷を訪れた源経房〈みなもとのつねふさ〉が、この草子を見つけてそのまま持ち帰ったので人の目に触れるようになり、『枕草子』は貴族の間で大変な評判を呼び、読み継がれて後世に残ったのである。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『号外!日本史スクープ砲』出演のほか、著書に『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社)、『30分でまるっとわかる!なるほど徳川家康』(永岡書店)『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』(扶桑社)