東西高低差を歩く関東編 第48回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

~知られざる名瀑の都 2

不動の滝


イラスト:牧野伊三夫

江戸は名瀑の都でもあった。前回は東京に点在している「不動の滝」を取り上げ、崖線の湧水が滝として流れ落ちる、土地の高低差が露あらわになった名所を紹介した。江戸時代の観光スポットとして、歌川広重が浮世絵で描いた「江戸名所百景・王子不動の滝」の疑問点を8月号最後で記したが、今回はその疑問に迫りたいと思う。あくまでも筆者の想像ではあるが、史実からは解き明かせない謎を「地形」を手掛かりに考えてみたい。

冒頭で「江戸は名瀑の都」と記したのは、湧水を利用した滝に加え、上水道からの水を引き込んで、新たに滝をつくり出した事例がいくつもあったからだ。例えば水戸徳川家上屋敷(小石川後楽園)や郡山藩柳沢家下屋敷(六りく義園えん)、高須藩松平家上屋敷(新宿区荒木町)、島原藩松平家抱屋敷(目黒区目黒1丁目)などに滝があったことが知られている。

小石川後楽園と六義園は、庭園部分がほぼ当時の姿で継承されているため、江戸の庭園文化の一端を今でも味わうことができる。残念ながら小石川後楽園にあったとされる滝は遺されていないが『水戸様江戸御屋敷御庭之図』(彰考館蔵)には、神田上水の水を引き込み水車によって水を汲み上げて滝を実現させていた記述がある。

また高須藩松平家上屋敷では、近くを流れていた玉川上水の水を埋樋で導き、庭園の池に滝として落としていた。大名庭園が立地していたのは、台地と低地の境界部分で、元々はスリバチ状の窪地の底で湧き出る湧水を溜めて池を形成していたが、土地の高低差に目を付け、滝を付加したのだと思う。

そして、島原藩松平家抱屋敷にあった滝は「江戸名所百景・目黒千代か池」として広重が浮世絵で残してくれたおかげで、当時の様子を知ることができる。浮世絵では、何段にも落水する大規模で印象的な滝の姿と、池の畔で涼をとる人の姿が描写されている。大名屋敷の庭園は一般的に、江戸市民に開かれることはなかったが、広重がこの絶景を描いたということは立ち入りが可能であったか、外から覗けた可能性もある。

庭園があった場所は、現在は閑静な住宅地となっており、江戸時代の痕跡を見つけ出すことはできない。土地の高低差のみが、そこに存在している。大名庭園があった場所を明治時代の迅速測図で確認すると、スリバチ状の窪地があったことが読み取れる。島原藩松平家抱屋敷の屋敷絵図や庭園図は見つかっていないが、十方庵遊歴雑記「目黒千代が崎林泉の逍遥」の記述や挿絵から、近くを流れていた三田用水から水を引き込み、池へと水を落としていたことが読み取れる。

台地の上を流れる水と土地の高低差があれば、市中においても「滝」というエンターテインメント施設が実現できる、この気づきは明治時代になると様々な場所で適用された。三田用水の流域だけでも、旧西郷従道邸の庭園(現在の西郷山公園と菅刈公園)や代官山にある旧朝倉家住宅の庭園などに、滝の存在が記録されている。江戸・東京は名瀑の都となる条件を備えていたわけだ。

さて、冒頭で投げかけた「江戸名所百景・王子不動の滝」の疑問についてだが、自分の想像(妄想)は、「近くを流れていた千川上水の水を引き込んで落として実現させたものではないか?」というものだ。「王子不動の滝」は俯瞰的に描かれた浮世絵も存在するが、画からは滝の水源が湧水と解釈するには不可解なことが多い。滝の流量もさることながら、崖の上部から水が落ちており関東ローム層が堆積した崖の上位面に湧出があるのは不自然だからだ。

東京都は玉川上水の復活に向けて動き出している。通水には10年以上を有するようだが、実現の暁には、都内に滝が再び設けられることを夢見ている。東京がまた「名瀑の都」となる日が来るかもしれない。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京「スリバチ」地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺東京北部編・南部編』(昭文社)などがある。2022年にはイースト新書Qより『東京スリバチ街歩き』を刊行。
専門は建築設計・インテリア設計。

(ノジュール2023年10月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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