東西高低差を歩く関西編 第49回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

奈良・海石榴市

出会いの回廊地帯


イラスト:牧野伊三夫

三者が接する地理的な境界地域にて、異なる文化や国家をつなぐ廊下状の地帯を「回廊」と呼ぶ。たとえば中華王朝と西域のオアシス国家群をつないだ河西〈かせい〉回廊など、歴史上で回廊地帯が果たした役割は数知れない。では日本列島の歴史で、特別な意味をもった回廊地帯はどこだろうか。数々の文学作品に名を残した海石榴市〈つばいち〉を発着点として、奈良盆地と外部地域をつないだ一帯を考えてみたい。

海石榴市とは奈良盆地の東南部に位置し、『万葉集』にて「紫は 灰指〈さ〉すものそ 海石榴市の 八十衢〈やそのちまた〉に 逢へる児〈こ〉や誰」(海石榴市の交差点にて出逢ったあなたは何という名か)と詠われたように、「八十衢」(八方から道路が離合集散する交差点)に立地した市場であり、人びとが性愛を含んださまざまな心情を投げかけあう出会いの場だった。

さらに、長さ約50㎞にわたって連続する谷地形が海石榴市を発着点として東方に延びており、かつては奈良盆地と東国をつなぐ伊勢街道あるいは初瀬〈はせ〉街道の名で知られていた。海石榴市は単なる交差点上にある市場の役割だけでなく、奈良盆地を中枢とした畿内と東国を結ぶ回廊地帯の出入口だったのだ。そこは日本列島の東西結節点といえるほど重要であり、海石榴市が古くから多くの人びとの関心を集めたこともうなずける。

この場所にひとかたならぬ興味を示して、みずからが著した物語にて特別な分量を割いた人物が紫式部だった。紫式部が著した『源氏物語』は「桐壺〈きりつぼ〉」から「夢浮橋〈ゆめのうきはし〉」に至る全五十四巻の大長編小説だが、物語前半の重要な折り返し点ともいえる内容が「玉鬘〈たまかずら〉」巻である。そこでは、光源氏と死別した恋人(夕顔)が残したひとり娘(玉鬘)が、自分探しとも呼べる苦悩を深めながら、旧知の人物と奇跡的な邂逅〈わくらば〉を遂げるエピソードが描かれている。「仏の御中には、初瀬〈はつせ〉なむ、日本〈ひのもと〉の中〈うち〉には、あらたなる験〈しるし〉あらはしたまふと、唐土〈もろこし〉にだに聞こえあむなり」(仏のなかでは、長谷寺が日本の中でもあらたかな霊験をお示しになると中国でも評判になっているそうです)と従者に薦められるままに、玉鬘は人生の好転を求めて長谷寺の観音菩薩に救いを求める旅に出る。そんな彼女がようやくのことでたどり着いた場所が、平安時代に長谷寺詣の起点となっていた海石榴市だった。当時は、長谷寺詣の前日に海石榴市に逗留〈とうりゅう〉してそこで参詣準備をすることが通例だったようだが、玉鬘はその海石榴市の宿にて、亡き母ゆかりの人物と出会うことで、その後の彼女の人生が劇的に好転していく。『源氏物語』のなかでも「玉鬘」巻は屈指のカタルシスを読者に生むが、ここで心憎いのは玉鬘にとっての邂逅の地が、観音聖地の長谷寺その場所ではなくて、そこに向かう中継地点の海石榴市に設定されていることだ。海石榴市で出会いを果たした玉鬘一行は、その翌日、長谷寺に連れだって参詣しているが、このように玉鬘の邂逅と救済が二段階の過程を踏まえることで、彼女の人生の一大転換が単純な局面に収まらず、奥行きと深みが生まれている。

まさしくこの邂逅と救済の過程こそ、海石榴市から長谷寺に向かって延びる回廊地帯と重なるものだ。ひとりの人生が苦悩から救済に変化するとき、それ相応の舞台が用意されねばならない。作者紫式部の構想に浮かんだ舞台こそが、奈良盆地から東国に向かう回廊地帯の風景であり、その風景の奥行きと深みによりインスピレーションが生まれたのだろうか。『源氏物語』の「玉鬘」巻はディテールの豊かさに屈指のものがあり、玉鬘が女性の足で京都から徒歩四日をかけて海石榴市に到着する旅程や、道中に従者にもたせた携帯用便器樋ひ洗すましとか、下女の食事は主人の残飯であるとか、読んでいて飽きることなく平安時代の旅を追体験できる。そうしたエピソードのなかで、邂逅(海石榴市)と救済(長谷寺)の過程を、回廊地帯の風景に重ね合わせたところに、物語作家としての紫式部の力量が感じられるし、今に至るまで『源氏物語』が古典中の古典として抜きんでた評価を受ける理由も理解できるのだ。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。
NHKのテレビ番組『ブラタモリ』では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2023年11月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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