河合 敦の日本史の新常識 第43回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

日本遺産として語り継がれる

織田信長の
〝おもてなし力〈りょく〉〟


イラスト:太田大輔

日本遺産のなかに「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜がある。

実は信長はかなりの「おもてなし」上手であった。

永禄十二年(1569)、宣教師ルイス・フロイスは修道士のロレンソを連れ、信長の居城・岐阜城へ出向いた。このとき信長は大いに歓迎し、客人を入れたことのない日常生活の場にまで彼らを引き入れた。そのときの記録がフロイスの著作『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳 中央公論新社)に記されている。

その場には長男の信忠〈のぶただ〉と長女の徳姫〈とくひめ〉、そして次男の信雄〈のぶかつ〉がいた。どうやら信長は、妻の生駒〈いこま〉氏から生まれたこの三人と同居していたようだ。フロイスが居室の座敷に入ってくると、信長は十一歳の信雄を呼んで、お茶を持ってこさせた。そして数時間、フロイスからヨーロッパの地理や学問を聞いたあと、信雄を再び呼び、晩餐の支度をさせた。そして食事が出来上がると、なんと信長は自ら食膳をフロイスのもとに運び、「御身らは突然来られたので、何もおもてなしすることができぬ」(前掲書)と言って手渡したという。

恐縮したフロイスが膳を頭上に戴いて敬意を示すと、「汁(米飯に添えて食べるスープ)をこぼさぬよう、真直ぐに持つように」(前掲書)と注意している。何ともおもしろいシチュエーションだ。

食後に信長は、信雄に絹の袷〈あわせ〉や白い帷子〈かたびら〉を持ってこさせ、フロイスに着るように勧め、その和服姿を見て「今や汝は日本の長老のようだ」(前掲書)と満足げだったという。

その後、部下に命じてフロイスに城内を案内させたが、それでおもてなしが終わったわけではなかった。フロイスが城下の宿舎に戻ってくると、部屋には先ほど信長の前で着た服が置いてあった。フロイスが城内を見学している間に、信長は宿舎まで服を運ばせていたのだ。なかなかのサプライズなプレゼントである。

信長はこうした人を驚かせるおもてなしが好きだった。安土城を一般庶民に開放したり、お盆の際には、安土城や濠を提灯や松明〈たいまつ〉でライトアップしている。

そんな信長に対し、彼が感激するほどのおもてなしをしたのが徳川家康だった。

天正十年(1582)三月、武田氏を滅ぼした信長は「富士山が見たい」といい、翌四月、駿河(静岡)から家康の両国である遠江〈とおとうみ〉(滋賀)・三河(愛知)を通って帰国することになった。

このため家康は、急きょ、接待の準備を整えなくてはならなくなった。

しかし、各地でのおもてなしは、信長を大いに満足させるものだった。

信長が通る至るところに立派な宿泊施設や休息所、茶屋、廐〈うまや〉などを設け、道も綺麗に整地し、細い山道は金棒を使って岩を砕いて道幅を広げ、石を除いて路面を平坦にしたという。川には橋を架けた。例えば、流れの速い暴れ川である天竜川(長野県から静岡に流れる川)。到底、橋が架けられそうにないのに、信長が到着すると、見事な舟橋(多くの舟をつなげて架設した臨時の橋)が架かっていたのだ。

特に信長を感嘆させたのが、富士山を眺めたあと、登山口の大宮(富士大宮浅間神社)に出向いたときのことだ。一帯は二ヶ月前まで武田氏の支配地であったので、武田征伐のとき北条氏が進軍し、社殿をはじめ付近一帯はことごとく焼き払われていたのだが、家康はたった一晩泊まるだけの信長のために境内に素晴らしい御殿を新たに建て、その周りを柵や兵で固め、信長の安全をはかった。こうしたおもてなしに感激した信長は、家康に脇差しや長刀〈なぎなた〉、馬などを贈呈し、謝意を表した。

四月二十一日、信長一行は無事に安土城に帰着したが、翌月、今度は家康が安土城を訪れている。信長から駿河一国を与えられたお礼のためにやって来たのだ。

このとき信長は、自ら宿舎(大宝坊〈だいほうぼう〉)を選び、接待役を明智光秀に命じた。光秀は張り切って京都や堺で珍味を整え、おびただしい料理を出した。鶴汁や鯨〈くじら〉汁、さらに南蛮菓子の有平糖〈ありへいとう〉なども提供されている。江後迪子〈えごみちこ〉氏(『信長のおもてなし』吉川弘文館)によれば、一回の食事で二十五種類の料理が提供されたという。

ただ、光秀は十日間もかけて準備をしたのに、信長に急に毛利氏と戦う羽柴秀吉の援軍を命じられ、安土を離れなくてはならなくなった。小瀬甫庵〈おぜほあん〉著『太閤記』には、これを恨んで光秀は本能寺の変を起こしたと記されている。

信長は安土城で家康に舞や能を見物させ、自らが家康のところに膳を運んだという。だが、そんなおもてなしからわずか十数日後、信長は京都の本能寺で明智光秀軍の攻撃を受け、自刃を余儀なくされたのだった。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『号外!日本史スクープ砲』出演のほか、著書に『平安の文豪』(ポプラ新書)

(ノジュール2024年4月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

ご注文はこちら