河合 敦の日本史の新常識 第48回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

乱世の築城技術の粋

大坂城を自ら案内した
豊臣秀吉


イラスト:太田大輔

羽柴秀吉は、天正11年(1583)に織田家臣のライバル・柴田勝家を賤ヶ岳〈しずがたけ〉の戦いで破ると、新たに巨大な居城を築き始めた。それが大坂城である。主君・織田信長の安土城をはるかに上回る巨大で豪華な城だった。

もともと大坂周辺は、淀川や難波津〈なにわつ〉(港)がある交通の要衝だったので、古代には難波宮〈なにわのみや〉が置かれ、中世には石山本願寺(浄土真宗本願寺派の拠点)が設けられた。本願寺を中心とした寺内町〈じないまち〉には2万人の門徒が集まり、商工業が発達していった。本願寺第11世・顕如〈けんにょ〉の時代には、キリスト教の宣教師が「日本の富の大部分は顕如が所有している」と述べるほど、門徒から大量の米穀や金銭などが本願寺に寄進された。

だから岐阜城から大軍を率いて上洛した信長は、その富に目をつけ、顕如に対して法外な金銭を差し出させた。さらに、石山からの立ち退きを迫った。これに反発した顕如は信長への抗戦を決意。こうして石山合戦が勃発した。

信長は一向門徒の激しい抵抗に苦しみながらも、11年目に石山本願寺を屈服させ、大坂の地を手に入れた。ゆくゆくは、ここを本拠地にしようと考えていたようだ。

それを知っていたので、秀吉は大坂の地を拠点として選んだのだろう。ただ、理由はそれだけではない。この地が要害だったことも大きい。石山本願寺は寺院といっても幾重もの堀や土塁などで囲まれており、実質的には大城郭だった。大坂城をつくる際、こうした施設を利用できるのも大きなメリットだったはずだ。

大坂城には、当時の最高水準の城郭技術がふんだんに注ぎ込まれた。

縄張り(設計)は輪郭式〈りんかくしき〉を採用し、本丸を中心に複数の石垣を巡らした曲輪〈くるわ〉(二の丸、三の丸)をつくり、それを幾重もの堀で取り囲んだ。堅固な高石垣と広大な多重の堀によって、内かく(中心部)に近づくほど防御が強化され、本丸への敵の侵入を許さない頑強な防御構造を備えていた。

石垣は基本的には自然石を用いているが、打込接〈うちこみはぎ〉の箇所も確認できる。打込接とは、石を打ち欠いて加工し、隙間を少なくして積み上げる技術のことだ。また、石垣の角隅については算木積〈さんぎづみ〉という、直方体の石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて積んでいく手法(まだ未熟な部分も見られる)を採用して強度を高めている。ちなみにポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、「大坂城の工事において万人がもっとも不思議に思い驚嘆と畏怖の念を抱いたのは、かくも夥〈おびただ〉しい大量の石材をどこから集めて来ることができようかということであった」( 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』中央公論社)と述べているが、石垣の石材は、大坂湾周辺をはじめ、瀬戸内海沿岸の各地から集められた。石の種類はバラエティに富んでおり、「古墳時代の石棺や古代の礎石などの転用材を用いているほか、石材は花崗岩以外の砂岩、緑泥片岩、安山岩など」も用いられ、「花崗岩は生駒山系や六甲山系のものが持ち運ばれた」(中井均著『秀吉と家臣団の城』角川選書)という。

石は大きなものだと数tの重さがあったが、フロイスが人に聞いたところによれば、石を載せた船が毎日1000隻以上も大坂湾に入って来たという。実際、大坂城周辺は、各地から集まる石であふれていた。秀吉が、諸大名に厳命して運ばせていたのだ。

高さと荘厳さを強調した天守は、まさに豊臣政権の権威と富の象徴であり、諸大名を畏怖させたことだろう。秀吉はそんな天守に外国人たちを招き入れているのだ。

天正14年(1586)、ポルトガル人宣教師ガスパル・コエリョら約30名のキリスト教関係者が、大坂城を表敬訪問した。そのときの様子をルイス・フロイスが書きとめているが、それによれば秀吉は、コエリョ一行がやって来ると、なんと自ら大坂城内を案内したという。豪華な黄金塗りの部屋や技巧を凝らした庭園を喜んで見せ、壮麗な天守の中を連れて回ったのである。しかも、梁〈はり〉が低いところでは、秀吉本人が宣教師たちに「頭をぶつけないよう気をつけよ」と注意したという。

また、天守の各階には財宝が充満していたと記され、一行は金糸を縫い付けた寝台や組み立て式の黄金の茶室も目にしている。4階まで上ってくると、秀吉は彼らに茶を与えて一服させたという。天守の最上階には外廊〈がいろう〉が巡らされており、眼下には多数の労働者が工事に従事している様子が見え、目を遠くに転じれば周辺の数カ国を見渡すことができたそうだ。

なんともサービス精神旺盛な秀吉だが、きっと自分の自慢の城を外国人たちに見せびらかしたかったのだろう。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『平安の文豪』(ポプラ新書)。

(ノジュール2024年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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