河合 敦の日本史の新常識 第49回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

古代からの一大産地!

紫式部ゆかりの
越前と和紙の歴史


イラスト:太田大輔

先日、今年3月に延伸した北陸新幹線の福井駅を経由して越前たけふ駅(越前市)に降り立った。真新しい駅舎から出ると、駅前ロータリーにユニークなバスが停車していた。大河ドラマ『光る君へ』で紫式部を演じる吉高由里子さんの姿が車体にラッピングされているではないか。実は越前市には越前国府があり、長徳2年(996)、紫式部は越前国司として赴任した父・藤原為時〈ためとき〉とともに来住している。

紫式部ゆかりの地なので市内には紫式部公園があり、園内に黄金の紫式部像や紫ゆかりの館がある。また今年、しきぶきぶんミュージアム内に大河ドラマ館もオープンした。駅前ロータリーで見たバスは、駅とドラマ館を結ぶシャトルバスだという。

越前滞在時、紫式部は、「ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松にけふやまがへる」という和歌を詠んでいる。越前の日野山の杉木立に雪が積もるのを見て、京都の小塩山の松の雪景色を懐かしんだ歌だ。

ただ、彼女は2年も経たずに都へ戻ってしまう。藤原宣孝〈のぶたか〉に求婚されたからだ。夫婦になったいきさつはわからないが、宣孝は40代後半。正妻とのあいだに20代の息子もおり、20代後半の紫式部とはいわゆる年の差婚だった。翌年、娘の賢子が生まれるが、結婚から3年も経たずに宣孝は病死してしまう。紫式部は、悲しみや憂さを晴らすため物語を書き始めた。それが『源氏物語』だ。

やがて、物語のすばらしさを聞きつけた藤原道長が、娘の彰子(一条天皇の中宮)の女房として迎え入れ、紫式部の宮仕えが始まったのである。

ただ、当時の紙は大変な高級品なので、下級貴族の紫式部がなぜ長大な物語を記すだけの紙を所持できていたのかが不思議だ。一説には、執筆以前から紫式部は道長と面識があり、彼の依頼で紙を支給されて物語を書くようになったとされる。ただ、父が国司をしている越前は紙の名産地であり、そうしたルートを通じて入手した可能性もあると思う。

越前に紙すき技術を伝えたのは、川上御前だと伝えられている。今からおよそ1500年前、岡太〈おかもと〉川の上流に美しい姫(川上御前)が現れ、川沿いの五箇〈ごか〉の村人に「この地は清らかな川と山に恵まれているので、紙を作って暮らすがよい」と紙すき技術を伝授したという。

こうして五箇村で紙の生産が始まり、越前和紙は古代から諸寺院で写経用紙として珍重され、室町時代になると、「越前奉書」といって公家や武家の公用紙として大量の需要が生まれた。また、雁皮〈がんぴ〉のみを原料とする越前の鳥の子紙は、高級品として襖紙や壁紙に使用された。こうして中世には、和紙は越前の特産物となったのである。

さらに近世、越前での和紙生産はますます発展していった。

現存する日本最古の藩札(藩内だけで流通する紙幣)は、寛文元年(1661)に福井( 越前)藩が発行した紙幣である。福井藩は御家のゴタゴタで財政が苦しくなり、幕府に藩札の発行を申請したのだ。親藩(徳川一族)大名ということもあって、特別に発行が認められた。以後、福井藩はおよそ200年にわたって藩札を発行し続けたが、その用紙は五箇村で一手に製造された。ただ、村の紙すき職人や関係者には、紙すき技術や藩札製造の情報をいっさい外に漏らさぬよう、血判を押した誓詞〈せいし〉を提出させたのである。

明治元年(1868)、新政府の財政を担ったのは、福井藩出身の由利公正〈ゆりきみまさ〉である。由利は、政府の資金難を打開するため、太政官札と呼ぶ全国共通の紙幣(金札)を3000万両発行することを決めた。そして由利は、太政官札の用紙を五箇村で製造させたのである。ただ、贋札を防ぐため五箇村へ入る数カ所の入口に関所を設け、厳重に通行人を監視し、怪しい者については男女の別なく裸にして調べ上げたという。

明治8年(1875)、大蔵省紙幣寮の一機関として紙幣を製造する抄紙局が東京の王子に設立された。このとき抄紙局には、五箇村の紙すき職人が多数雇用され、明治18年(1885)には、初の日本銀行券が発行された。紙幣に大黒様の肖像があるので、これを俗に「大黒札」と呼ぶ。

このように、紫式部と関わりの深い越前和紙は、現代に至るまで紙幣の歴史に大きな影響を与え続けているのだ。ちなみに今も五箇地区には50軒ほどの紙すき業者がおり、美しい越前和紙を作り続けている。そんな五箇地区を流れる岡太川上流には、川上御前を祀る大瀧神社・岡太神社の社殿が鎮座する。唐破風と千鳥破風を波のように重ねた見事な社殿は、国の重要文化財に指定されている。私も五箇地区を訪ねたが、山に囲まれた静かな里、そこに鎮座する紙祖神の社は、紫式部が生きた平安の昔を感じさせてくれた。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『逆転した日本史』(扶桑社)

(ノジュール2024年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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