河合 敦の日本史の新常識 第52回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

留魂録に思いを込めて

吉田松陰の受け継がれる意思


イラスト:太田大輔

1年間の3分の1は、講演会やテレビのロケで全国を回っている。仕事ではあるものの、合間に史跡や寺社を訪ねることができるので、生き甲斐にもなっている。

先日も山口県萩市の松陰神社をロケで訪れた際、ご厚意で現存する松下村塾〈しょうかそんじゅく〉の講義室に入れていただいた。わずか八畳一間だが、この場所から高杉晋作、久坂玄瑞〈くさかげんずい〉、伊藤博文、山県有朋〈やまがたありとも〉など、そうそうたる人々が巣立っていった。学生時代、吉田松陰を描いた司馬遼太郎の時代小説『世に棲む日日』を読んで、その事実を知った。自分が教師を目指していたこともあって、以来、坂本龍馬と並んで吉田松陰は私の最も敬愛する人物になった。そんな松下村塾の、松陰の定席に座ることができたわけだから、まさに感無量だった。

松陰は「世の中には賢い人も愚かな人もいるけれど、誰もが一つや二つの才能をもっている。だから人に完璧を求めてはならない。欠点があるからと見捨ててしまったら、決して大きな才能を得ることはできない」と述べ、門人の長所を見いだしては紙に記して本人に告げてやっている。また、「長州藩から偉人が現れるとしたら、それは必ずこの塾からだろう」と彼らの自尊心を育み、大志を抱かせた。

ただ、幕府が不平等条約の日米修好通商条約を締結すると、松陰は怒りに駆られ、「老中の間部詮勝〈まなべあきかつ〉を討て」と門弟たちに命じた。江戸にいた高杉晋作らは驚き、手紙で松陰に自重を求めた。また、過激な発言に弟子たちは松陰から離れていった。長州藩もこの言動を問題視し、ついに松陰を牢獄に収監してしまった。

やがて幕府は、松陰の身柄を江戸に移し、志士との関係を調べ始めた。ただ、老中要撃計画は探知していなかった。にもかかわらず松陰は、自供してしまった。役人たちは仰天し、結局、死罪に処したのである。満29歳だった。

死を免れないと悟った松陰は、門弟に遺書を残した。留魂録〈りゅうこんろく〉である。半紙を四つ折りにしてこよりで綴じ、19面に約5000字が書き込まれている。処刑の2日前から書き始め、前日の夕方に書き上げた。留魂録は遺品として郷里へ送られた。

松陰を避けていた門弟たちだったが、師が幕府に不条理に殺されたことで、再び松下村塾に集い、皆で亡き師を偲び仇討ちを誓い合った。その後、留魂録も次々と弟子たちに書写されていき、倒幕の原動力となった。しかし惜しいかな、幕末動乱の中で直筆の留魂録は行方不明になってしまった。

明治9年(1876)、神奈川権令の野村靖のもとに沼崎吉五郎〈きちごろう〉と名乗る老人が訪ねてきた。野村は松陰が生前、最もかわいがっていた塾生の一人である。吉五郎はそんな野村に半紙を綴じた小冊子を手渡した。なんと、松陰直筆の留魂録であった。

吉五郎は松陰と同室の囚人で、処刑の日、この遺書を託されたのである。松陰は無事に門弟のもとに留魂録が届くかを危ぶみ、同じものをもう一冊作っていたのだ。

留魂を託された吉五郎は三宅島へ流されるが、留魂録を大切に隠し持っていた。そして明治7年(1874)に東京に戻ると、約束に従って野村に届けたのだ。律儀な人である。

この留魂録は今も松陰神社に大切に保管されている。今回、私は本物を目にする機会を得た。小さな紙片に細かい文字がびっしり書き込まれている。驚くべきは、死を目前にして美しい文字が整然と書き連ねられていることだ。松陰という人の、精神の強靱さに圧倒される。

留魂録の中で、松陰は次のように述べている。

「死を前にして平静でいられるのは、四季の循環を知っているからだ。春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬に蔵に収める。人生もこれと同じ。(中略)十歳で亡くなる子もいるが、そんな短い人生の中にも四季は宿っているもの。(中略)三十歳で生を終える私も、きっと花を咲かせ実を付けたことだろう。それがどんな実なのかは、私の知るところではない。けれどもし、私を憐れみ志を継いでくれる者がいるなら、蒔かれた種は絶えることなく、毎年実を付けていくことだろう。諸君、どうかこのことをよく考えてほしい」。

松陰神社を出た後、団子岩とよばれる高台に向かった。ここに松陰の墓があるからだ。学生時代に訪れて以来、38年ぶりである。墓石の前に立派な花立や水盤、灯籠があるが、いずれも門弟たちが寄進したもので、高杉晋作、久坂玄瑞、野村靖ら17名の名が彫られている。松陰は、公儀に逆らった大罪人である。その墓に堂々と刻まれた名を見て、私は松陰の志が彼らに引き継がれたことをはっきり理解した。同時に、17名のうち半数以上が若くして戦死、自刃を遂げている。そういった意味で今回、改めて人が人に与える影響の大きさを実感したのだった。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『逆転した日本史』(扶桑社)

(ノジュール2025年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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