河合 敦の日本史の新常識 第54回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

生糸が日本の運命を握った?

江戸時代の貿易事情とは


イラスト:太田大輔

江戸時代は鎖国をしていたといわれ、「国を鎖〈とざ〉す」と書くことから、外国と貿易や外交をしていなかったイメージをもつ人もいるだろう。しかし、今の歴史教科書には「国が完全に鎖されたわけではなく、四つの窓口が開かれていました。その四つとは長崎、対馬〈つしま〉(長崎県)、薩摩(鹿児島県)、松前(北海道)」(『社会科中学生の歴史』帝国書院2018年)とあり、海外との窓口も複数存在したことを明記している。しかも、そうした窓口での貿易量は大変多く、特に莫大な金銀銅が海外へと輸出されていた。

例えば、清国は日本から銅を輸入しないと、貨幣経済が立ち行かなくなるほどだった。なぜなら銅銭原料の6割から8割程度を日本から仕入れていたからである。オランダへは銀や銅だけでなく、佐渡島〈さどがしま〉でとれた金も膨大に輸出された。こうした金銀銅を銭貨だと考えると、江戸時代の交易は貿易赤字だった。そのため江戸幕府の為政者・新井白石〈あらいはくせき〉は、「このままでは、お金の原料が枯渇してしまう」と判断し、聖徳5年(1715)に貿易制限令(長崎新令)を出し、オランダ船は年間2隻、清国船は70隻から30隻に受入れ数を減らしている。

ところで日本は、貴重な金銀銅を支払って一体何を輸入していたのだろうか。

最大の品は、実は生糸であった。美しさと着心地のよさから、日本人はこよなく絹織物を愛していた。けれど、国内ではろくな生糸が生産できず、良質の糸は全面的に清国からの輸入に依存していた。そのため、清国との長崎貿易だけではとても量が足りず、オランダや琉球王国(薩摩藩経由)、朝鮮を通じて入手していた。例えば、朝鮮の釡山には対馬藩士が倭館(日朝の貿易センター)に常駐していたが、京都西陣織の商人たちは事前に対馬藩に大量の銀を送り、朝鮮経由で清国産生糸を手に入れていたのである。

あまりに日本の需要が多いので、清国やオランダ、朝鮮は価格を高く設定して生糸交易でぼろ儲けしていた。そこで江戸幕府は、たびたび庶民の絹服着用を禁じたり制限したりして需要を減らそうと試みるが、あまり効果はなかった。そこで新井白石や八代将軍・徳川吉宗などは、人気のある舶来品〈はくらいひん〉の国産化を推進していく方針をとったのである。生糸を筆頭に朝鮮人参や砂糖などがその対象となった。

意外なことだが、こうした動きが世界遺産として有名な白川郷〈しらかわごう〉や五箇山〈ごかやま〉の合掌造りを誕生させたのである。合掌造りは、茅葺き屋根(切妻)が手を合わせたような大型の山形になっているのが最大の特徴だ。豪雪地帯なので屋根の傾斜が急(60度以上)で雪が落ちやすくなっているのが理由の一つであるが、最大の要因は養蚕のためであった。

巨大な三角屋根の屋内には屋根裏板(天井)が張ってあり、屋根裏の空間が非常に広いのだ。空間は2層や3層構造になっていて、両側には明り障子の大きな窓がいくつも備え付けられている。このため屋根裏は明るく、風通しもよい。そんな屋根裏部屋で飼育されたのが蚕で、盛んに養蚕が行われるようになったのだ。というより、養蚕を行うために、このような構造(合掌造り)に変化したのである。それは、合掌造りの誕生が、幕府が生糸を国産化しようとした時期(18世紀半ば)と一致することでも理解できる。実は、山梨県の上条〈かみじょう〉集落の突き上げ屋根、関東などに見られる兜造りの屋根なども、屋根裏での養蚕のために屋根の構造を変化させたものだとされる。

白川郷や五箇山で生産された生糸は、高級絹織物染めの加賀友禅などにも使用できる良質なものとなったが、国内全体でも生糸の品質は向上し、開国後は盛んにヨーロッパへ輸出されるようになった。このため、蚕のエサとなる桑の畑も急増する。もともと多摩地域(東京都)は養蚕が盛んで、西行が「浅川を渡れば富士の雪白く桑の都に青嵐吹く」と詠んだといわれるが、開国すると八王子に生糸市が立ち、周辺地域から生糸が集積され、横浜港へ送られた。そんなことから八王子は「桑都〈そうと〉」と称され、八王子から鑓水〈やりみず〉を経て横浜港に至る浜街道は「絹の道」とよばれ、生糸で儲ける豪農や豪商が多摩に多く生まれた。

ちなみにヨーロッパで日本の生糸が人気になったのは品質のよさというより、生糸大国のフランスやイタリアで蚕が病気のためほぼ全滅し、生糸が生産できなくなったことが大きい。なお、日本から蚕卵紙も輸出されており、現在のヨーロッパの蚕は日本の蚕の遺伝子をもっているといわれる。

ちなみに明治政府は、生糸を輸出の主力にしようと考え、フランスから技師や職人を招き、模範工場を造って熟練した職人を育成した。それが富岡製糸場だ。結果、明治42年(1909)、日本は世界一の生糸輸出国になったのである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『禁断の江戸史』(扶桑社)

(ノジュール2025年3月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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