河合 敦の日本史の新常識 第55回
かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。
奇石はどうして作られた?
女帝・斉明天皇の思惑とは
イラスト:太田大輔
飛鳥地方には石の遺物があちこちに存在しているが、酒船石〈さかふねいし〉、マラ石、猿石、亀石など、その用途が不明な石造物が多い。ただ、その大半は、7世紀半ばの斉明〈さいめい〉天皇の時代に製造されたものなのだ。なぜこの時期に不思議な石が集中して製作されたのか。その謎を解き明かしていこうと思う。
斉明天皇は、皇族の茅渟王〈ちぬのおおきみ〉と吉備姫王〈きびひめのおおきみ〉の娘として生まれ、舒明〈じょめい〉天皇の妻(皇后)となるが、夫の死後に後継者が決まらなかったので、皇極〈こうぎょく〉天皇となった。当時は蘇我蝦夷〈そがのえみし〉・入鹿〈いるか〉父子が政治を牛耳っていたが、中大兄皇子〈なかのおおえのおうじ〉と藤原鎌足〈ふじわらのかまたり〉がクーデターを起こして蘇我氏を滅ぼした(乙巳〈いっし〉の変)。ちなみに中大兄皇子は、皇極天皇の息子である。
変後、皇極天皇は退位して弟軽皇子〈のかるのみこ〉が孝徳〈こうとく〉天皇となり、翌年、都を飛鳥から難波に移して政治改革(大化の改新)を進めた。しかし白雉〈はくち〉5年(654)に孝徳天皇が病死すると、再び皇極が皇位(斉明天皇)についた。
斉明天皇は、飛鳥の都(後飛鳥岡本宮)を荘厳にするため、土木工事を行った。例えば、宮殿近くの丘陵上に酒船石があるが、斉明天皇は丘全体を石垣で覆うため、延べ約3万人を動員して運河を開き、十数㎞離れた天理付近から石上山石を切り出して舟で運び、約7万人を動員して石垣を積ませたという。
無謀な工事は批判を受け、斉明天皇の運河は「狂心渠〈たぶれこころのみぞ〉」とよばれ、「丘陵の石垣もすぐに崩れるだろう」と人々が噂したと『日本書紀』に記されている。蘇我赤兄〈そがのあかえ〉も、斉明天皇の失政として、人々の財を大きな倉に集積したことに加え、運河を造り舟で石を運び丘のように積み上げた行為を挙げている。
なお、酒船石は長さ約5.3m、幅約2.3m、厚さ約1mの扁平な石板で、表面に人工的な溝や円形のくぼみがある。そのため酒の醸造施設だとか、水銀朱を製造する設備だとかいわれてきたが、近年は水を流して占いを行う装置だという説が有力だ。2000年には、酒船石がある丘の麓から水槽と思われる亀形石造物と小判形石造物が発掘され、この辺り一帯が祭祀やみそぎを行う斉明朝の重要施設だと判明した。
飛鳥の石神〈いしがみ〉遺跡は、掘立柱の長大な建物跡に加え、高さ約2.5mの須弥山石〈しゅみせんせき〉が出土している。須弥山とは、仏教でいう世界の中心にある高い山のこと。つまり斉明天皇は、須弥山石を配置することで、飛鳥が世界の中心だと人々に知らしめようとしたのかもしれない。
あるとき斉明天皇は、東北地方の蝦夷を招き、彼らを須弥山石でもてなしたと『日本書紀』にある。実はこの須弥山石、中は空洞で、下部の小さな穴から水が噴き出る仕組みになっている。硬い花崗岩に穴をうがつのは極めて高い技術ゆえ、噴水を見た蝦夷は驚いたことだろう。なお、斉明天皇が遣唐使を派遣した際、唐の皇帝に「日本に服属している者たちです」と連れてきた蝦夷2人を紹介している。大帝国唐に対し、日本の権威を高めようという狙いだろう。
また、石神遺跡からは異国風の顔をもつ石人像が出土しており、やはり口から水が噴き出す仕組みになっている。飛鳥には現在のインドやタイの人々も訪れており、彼らをかたどった可能性が指摘されている。そんなことから石神遺跡は、客人を饗応〈きょうおう〉する施設や儀礼の場だったと考えられている。
昭和47年(1972)、飛鳥水落〈あすかみずおち〉遺跡から前例のない斉明天皇時代の大型建物が出土した。正方形に土を盛り上げ、自然石(花崗岩)を3、4段に積み上げた基壇をもつ。さらに基壇の周囲には、幅約1.8mほどの濠が巡っていた。基壇上には四間四方の楼閣が立っていたようだが、中央には柱がない。さらに基壇内からは銅管、木樋〈もくひ〉、漆の木箱などが見つかっており、最終的にはこの遺跡は漏刻〈ろうこく〉だと結論づけられた。漏刻とは、水時計のことである。『日本書紀』には、斉明天皇6年(660)に中大兄皇子が漏刻を作ったとあり、おそらくそれが飛鳥水落遺跡だというのだ。
古代中国でも漏刻を作り、皇帝が時を支配し、人々に教え授けるものとされていた。斉明朝でもそれを模倣したのだと思われる。漏刻で計測された時間は、太鼓や鐘で飛鳥の人々に知らされる。役人はこれに従って勤務し、人々は日常生活に役立てるようになった。
晩年、斉明天皇は滅亡した百済〈くだら〉の遺臣の求めに従い、朝鮮半島の新羅を征伐するため、大軍を率いて自ら遠征を開始した。しかし、渡海する前に病に侵され、九州朝倉宮〈あさくらのみや〉で、68歳で崩御したのである。
女帝というと、中継ぎというイメージが強いが、今見てきたように斉明天皇は大きな力をもち、さまざまな施設を造り、天皇や朝廷の地位を内外に高めようとした。今なお飛鳥に散在する石造物は、そんな斉明天皇の政治権力の痕跡なのである。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。
多摩大学客員教授。早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『禁断の江戸史』(扶桑社)