河合 敦の日本史の新常識 第56回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

最上階から京都を一望?

室町100m超えタワー


イラスト:太田大輔

年に数回は、仕事で京都に行く。先日も坂本龍馬をテーマにしたテレビのロケで龍馬の墓(京都霊山護國神社)を訪れたが、人影はまばらでひっそりとしていた。ところが、そこからわずか数分坂を下ると、和服姿の外国人観光客が列をなして歩いている。特に観光客が多いのは八坂通で、観光客で道路が渋滞するほどだった。あまりの落差に驚いたが、この場所が人気なのは、正面に美しい八坂の塔が見えるからだろう。

この八坂の塔、正式名称を法観寺〈ほうかんじ〉といい、建造されたのは永享〈えいきょう〉12年(1440)のことだと伝えられる。応仁の乱で町なかはほとんど焼失してしまい、市街地に現存する乱以前の木造の塔は、八坂の塔だけである。そういった意味では、極めて貴重な文化財なのだ。高さは約46m。マンションなら17階に匹敵する。よくもそんな高い木造の塔を室町時代に建てたものだと感心するが、実はほとんど同じ時期に、約109mの七重塔〈しちじゅうのとう〉が洛中にそびえ立っていたのだ。それが、相国寺の七重大塔である。

塔を築かせたのは、室町幕府の3代将軍・足利義満だった。

義満が生まれたのは、南北朝の動乱の真っただ中。南朝と北朝(室町幕府)が20年以上にわたって激しく争い、幼いときには南朝軍が京都を占拠し、しばらく避難生活を余儀なくされるほどだった。しかも10歳のときに父(将軍・義詮〈よしあきら〉)が死去してしまい、12歳で征夷大将軍となった。当初は管領〈かんれい〉・細川頼之〈よりゆき〉の補佐を受けていたが、20歳ごろから政治力を発揮し始め、花の御所とよばれる壮麗な邸宅を造り、ここで幕政をとるようになった。さらに南朝勢力を弱体化させ、明徳〈めいとく〉3年(1392)には南北朝を統一させることに成功。強大化し過ぎた山名や大内といった守護勢力も討伐し、将軍として君臨する。応永元年(1394)に嫡男の義持に位を譲って隠居したが、大御所として幕府の実権を握り続けた。同年には朝廷の最高位の太政大臣〈だじょうだいじん〉となり、公家たちも掌握した。

公武の頂点を極めた義満は、前代未聞の高さを有するタワーを応永6年(1399)に完成させた。それが相国寺七重大塔だ。ただ、相国寺という名称をもつものの、塔は境内ではなく境外に建てられた。塔の落慶供養では自ら願主となり、延暦寺〈えんりゃくじ〉、園城寺〈おんじょうじ〉、東寺、東大寺、興福寺からなんと約1000人もの僧を集め、自分が僧侶たちの中心となって式典を行った。つまり七重大塔の建造は、自分が仏教勢力の頂点にいることを内外に示すのが目的だったと思われる。とはいえ、約7年かけて完成した七重大塔は、長年の動乱に苦しんだ都の人々にとって、新しい世の中を感じさせる平和の象徴に映ったことだろう。

ところが、完成からわずか4年後、七重大塔は落雷によって焼失してしまったのである。すると義満は、2代目の塔を北山の山荘に築き始めたのだ。このころ、義満は明と国交を結んで日明貿易を始めるが、その利益が塔の再建に投じられたと考えられている。いずれにせよ、京都北山の地に金閣と七重大塔が並び立った光景は、まさに壮観だったろう。

しかし2代目の塔も応永23年(1416)に再び焼失してしまった。すでに義満亡き後のでき事だったが、室町幕府によって七重大塔は再々建された。その場所は、初代と同じ相国寺の隣接地だった。

しかし、3代目の塔も応仁の乱の最中に焼け落ちてしまう……。落雷なのか戦火なのか、失火なのかは定かではない。残念ながら幕府の力は弱っており、この後、七重大塔が再建されることはなかった。

それから100年以上たった天正2年(1574)、畿内を支配下に置いた織田信長が越後の上杉謙信に狩野永徳の描いた《洛中洛外図屏風》を贈呈した。金屏風に京都市中と郊外の名所を描いたもので、なんと約2500人もの人々や動植物、祇園祭などの様子が描かれている。屏風を製作させたのは13代将軍・足利義輝〈よしてる〉だった。義輝は衰弱した将軍の権威を高めるべく、大きな政治力を発揮した。この屏風も謙信を幕府の管領として招くために与えようとしたといわれる。だから画中には謙信の姿が描かれている。残念ながら義輝は暗殺されてしまい、のちに事情を知った信長が謙信に贈ったというわけだ。現在、この屏風は国宝に指定されているが、その風景は高所から洛中洛外を見下ろしたものとなっている。その場所とはおそらく、相国寺七重大塔の最上階だというのが定説になっている。

100年近く前に燃え落ちてしまった幻の塔だが、塔の上から眺めた下絵が残っており、義輝はそれをもとに狩野永徳に描かせたと考えられている。「義満時代の室町幕府の繁栄を謙信の力を借りて取り戻したい」。そんな将軍・義輝の切なる願いがこの絵に込められているのではないだろうか。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『戦国武将臨終図巻』(徳間書店)。

(ノジュール2025年5月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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