河合 敦の日本史の新常識 第58回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

悩みの種は現代人と同じ

西郷隆盛のダイエット


イラスト:太田大輔

原稿の締め切りに追われ、ゴールデンウイークはどこにも出かけず、ひたすら机に向かっていた。その結果、あっという間に体重が2㎏も増えてしまった。そこでダイエットを始めようと決意したものの、なかなか実行に移せない自分を責めている。

実は維新三傑のひとり、西郷隆盛もダイエットにチャレンジしたことがある。

上野公園の西郷さんの銅像を見ても、彼が肥満体型だったことは分かるだろう。現存する西郷の軍服から推測される体重は、なんと110㎏近くだそうだ。ただ、西郷は身長も高かった。178㎝ほどだったと考えられている。

ちなみに薩摩藩の人々は全体としてかなり身長が高かったのではないかという説がある。幕末の日本人の平均身長は155㎝程度。西郷は平均より20㎝以上高く、盟友の大久保利通〈としみち〉も西郷と同じくらいの背の高さだったという。

薩摩の人々の高身長については、食生活を理由に挙げる研究者もいる。江戸時代の日本人は牛や豚などの肉はほとんど食べなかったが、薩摩藩では鳥とともに豚肉食が普及していた。江戸時代初期、琉球王国を支配下に置いたことで、豚を食べる風習が薩摩にも広がったと考えられている。こうした肉食の常態化が、体格を向上させたのではないかというのだ。特に西郷は「豚骨」とよばれる豚の骨付き肉を大根やコンニャクと一緒に、味噌と黒砂糖と芋焼酎で煮る郷土料理を好んだと伝えられる。

とはいえ、西郷の110㎏は太りすぎである。しかも、体重は増加の一途をたどったようで、明治6年(1873)5月からは肥満のために肩や胸など身体に痛みを覚えるようになった。そこで灸をすえて治そうとしたが、一向に快方に向かわず、西郷は不治の病だと諦めていた。

そんな西郷を心配したのが、明治天皇であった。天皇は明治6年(1873)4月、近衛兵を率いて習志野台まで行軍する演習を行った。天皇自ら馬にまたがり一隊を指揮したが、近衛都督〈このえととく〉(近衛師団長)の西郷は、肥満のために馬に乗ることができず、徒歩で天皇の後についていったというのだ。これを見かねた天皇は「西郷の肥満は病的である」と考え、お雇い外国人医師のホフマン(ドイツ人)に診察を依頼した。

しかし西郷は、来訪したホフマンに対し「大変ありがたいが、灸さえすえていれば健康でいられますので、先生の診察を受けるまでもありません」と固辞した。もちろん嘘である。

するとホフマンは、「私は天皇陛下の仰せを受けて診察に来たのですから、使命を果たさないで帰ることはできません。あなたが拒否するのであれば、直接、天皇陛下にその旨を奏上していただきたい」と述べたので西郷は診察を受けることにした。

ホフマンは「身体の痛みは脂肪が血管を塞いで血の巡りが悪くなっているからだ」と述べ、薬を処方したうえで、西郷に「毎日散歩すること。脂肪が多いものを食べないこと。酒を節制すること」とアドバイスした。処方された薬はカルルス塩。ようは便秘薬、下剤であった。

西郷が知人に宛てた6月の手紙には、薬を飲んで1日5、6度も腹を下すと記されている。ちょっと薬の分量が多すぎる気もするが、西郷は「薬を飲み始めて20日ほど経ったが、いささかも疲れない。また、朝と夕方には散歩しているし、犬を連れてウサギ狩りしている」と述べ、食べ物についても「麦飯を少し、肉も鶏肉など脂肪の少ないものを食している。米など五穀はなるべく取らないようにしている」と語っている。

この年の10月に西郷は征韓論争に敗れて政府を下野して鹿児島へ帰っているので、薬による肥満治療は中断されたと思われる。ただ、その後も愛犬を連れて山中でたびたびウサギ狩りをしており、運動療法は帰ってもそのまま続けていたようだ。

明治10年(1877)、西郷は新政府に叛旗を翻した(西南戦争)が、およそ半年後、戦いに敗れて鹿児島の城山で自刃してしまった。

ちなみに出陣する際、西郷は騎乗で閲兵〈えっぺい〉したというが、戦争終盤になった同年8月には輿〈こし〉に乗っていたという新政府側の記録がある。このように史料が矛盾しており、残念ながら西郷のダイエットが成功したかどうかは明らかではない。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『戦国武将臨終図巻』(徳間書店)。

(ノジュール2025年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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