河合 敦の日本史の新常識 第59回

かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。

日本画の常識を塗り替えた

天才絵師、円山応挙の生涯


イラスト:太田大輔

日本の夏は蒸し暑い。そんな夏を涼しく過ごす手立てとして、江戸時代の人々は怪談を楽しんだ。数人で集まって順番に怪談話を披露していき、それが百話に達したとき本物の幽霊や化け物が現れるという言い伝えがある。これを「百物語」と呼ぶが、それをタイトルにした怪談本や物の怪〈もののけ〉の浮世絵も多く刊行された。なかでも人気だったのが、円山応挙〈まるやまおうきょ〉の女性の幽霊の肉筆画だ。ちなみに幽霊というと足がないイメージがあるが、それを画中で初めて表現したのは応挙だといわれている(異説あり)。しかも、背筋がゾクッとするリアルな姿が多い。

ただ、日本史の教科書では、応挙は写生を重んじた画家で、多くの弟子を育てて円山派を作り、その後の日本画に大きな影響を与えたと記されている。幽霊画についての言及はない。言うまでもなく写生というのは、モノをありのままに描く技法である。今では当たり前に思うかもしれないが、それ以前の日本では、描き手の精神や思いが込められている主観的な絵が主流だった。つまり、応挙の絵は極めて斬新だったのである。

そんな日本画の大家である応挙だが、絵師の家に生まれたわけではない。丹波国穴太〈あのう〉村(現・京都府亀岡市)の農家の出だった。10代半ばで京の都に上って呉服店に奉公し、のちに尾張屋勘兵衛の玩具店に勤めたといわれている。そして、20代後半に眼鏡絵(風景画の一種)を描くようになった。応挙が勤めた尾張屋は、びいどろ道具(ガラス製品)や人形などを売っており、眼鏡絵も売り物の一つだったからだろう。

応挙は、数年間長崎に滞在した沈南蘋〈しんなんびん〉の花鳥図の影響を受けたが、それ以外にも狩野派の作品をはじめ多くの作品を徹底的に模写していった。

応挙と同時代に活躍した絵師としては、近年、一気に知名度を高めた伊藤若冲〈いとうじゃくちゅう〉がいる。若冲は青物問屋の当主であったが、問屋を経営しつつ巧みな裏彩色を用いて鶏などの鮮やかな絵を描いて人気となった。このほか南画(文人画)の与謝蕪村〈よさぶそん〉や池大雅〈いけのたいが〉、長沢蘆雪〈ながさわろせつ〉や曾我蕭白〈そがしょうはく〉などが活躍しており、まさに京都画壇の黄金時代であった。

ちなみに18世紀後半の京都には、こうした革新的な絵師たちを生み出す土壌があった。

多数の寺社、公家や商家があり、絵の注文や修復の仕事が多く、絵師は食うに困らなかった。また、パトロンになってくれる富裕層も少なくなかった。例えば応挙は、若いころは円満院門主祐常〈えんまんいんもんしゅゆうじょう〉、さらには豪商・三井家などの支援を受けている。そのうえ寺社には昔の名画がたくさん所蔵されているので、先人から学ぶ機会をもてた。さらに西陣織、友禅染、清水焼など京都は最先端の手工業地域でもあり、進取の気風に富んでいた。

さて、応挙の写生画だが、単に本物のように描くだけでなく、不必要だと思うものを大胆に省略する手法を用いている。例えば、教科書にも載る応挙の代表作《雪松図屏風〈ゆきまつずびょうぶ〉》の右隻を見てみよう。巨大な老松の幹と、そこから伸びた3本の太い枝が描かれているだけだ。松樹全体ではなくごく一部だけをクローズアップしている。さらに、幹の下部には金砂子〈きんすなご〉(金箔を粉状にしたもの)をまぶして陽光を表現し、光に照らされ木肌が見えない(省略する)工夫が凝らしてある。松に積もる雪が白くまぶしいが、塗料が塗られているわけではない。なんと絵の具を省略し、紙の地色で雪を表現しているのだ。そして、左隻に若い松を生き生きと描くことで、右隻と左隻がコントラストをなしているのだ。実に見事である。

応挙の画中に登場する人物は、いずれも自然な動きをしている。これにも理由がある。応挙は、「人物画を描くにあたって、まずは男女老若の裸体や骨格を学ぶべきだ」と述べており、自身も中国の外科書や西洋の解剖書で学び、解剖学的な知識を有していた。実際、人間を描く際、最初に骨格を描き込み、その上から衣装を描いている。だからこそ、応挙の作品の中には不自然な動きをする人物はひとりも登場しないのだ。

さらに応挙は、同じ写生画であっても、鑑賞する場所や位置によって描き方を変えた。例えば屏風絵やふすま絵は、離れて鑑賞することが多い。応挙はこれを「遠見の絵」と呼び、「近づいて見たときに多少筆が連続していない箇所があってもかまわない。遠くから見たとき、あたかも本物に見えるよう描くべきだ」と述べ、逆に「近見の絵」は細密に本物のような色彩を用いる必要があると語っている。

繰り返しになるが、当時の人々にとって、本物に見える応挙の写生画は、極めて斬新だった。そこでたちまち人気を博し、京都の絵師番付では長い間1位を取り続けた。

三井記念美術館では9月から円山応挙展が始まるので、応挙の傑作達を堪能してみてはいかがだろうか。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『戦国武将臨終図巻』(徳間書店)。

(ノジュール2025年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)

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