河合 敦の日本史の新常識 第60回
かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。
日本近代製鉄の父
大島高任の功績とは
イラスト:太田大輔
明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業が世界文化遺産に登録されてから今年でちょうど10年を迎える。この遺産は、23の構成資産(8県11市に点在)全体で世界遺産とされている。先日、その一つである釡石市の橋野鉄鉱山の高炉場跡を訪れた。
釡石駅から車で約50分、まさにそれは山の中にあった。橋野鉄鉱山インフォメーションセンターに車を停め、数分歩いて橋を渡ると、にわかに目の前に草原が広がり、不思議な石組や石列がいくつも残っていた。幕末・維新期の高炉場跡である。
建造したのは大島高任〈おおしまたかとう〉、地元の盛岡藩士だ。
高任は、文政9年(1826)に藩医の周意〈かねおき〉の子として生まれた。父の周意はオランダ医学を学び、海防のため火薬の研究をしていた。そうした影響を受け、17歳で江戸へ出た高任は箕作阮甫〈みつくりげんぽ〉や坪井信道〈つぼいしんどう〉といった高名な洋学者に師事、さらに長崎に行き、高島浅五郎(秋帆〈しゅうはん〉の子)から西洋砲術などを学んだ。そして、その成果を生かして嘉永3年(1850)、大和郡山藩士の依頼で青銅製の大砲を鋳造、砲弾を発射してみせるなど西洋流砲術を伝授した。
翌年には盛岡に戻って結婚し、御鉄砲方として藩士に砲術を教授するも、嘉永5年(1852)に再び江戸へ出て佐賀藩医の伊東玄朴〈いとうげんぼく〉に師事した。既に佐賀藩では、玄朴が翻訳した洋書をもとに反射炉を建造、鉄製大砲の鋳造に成功していた。反射炉とは、輻射熱によって金属を精錬したり融解したりする洋式の溶鉱炉のことである。この時期、佐賀藩に続けとばかりに幕府や薩摩藩なども反射炉の建設を始めていた。そうした中、高任は前水戸藩主・徳川斉昭〈なりあき〉の招きを受け、水戸領内の那珂湊〈なかみなと〉に安政3年(1856)に反射炉を建造したのである。ただ、炉で製造した大砲は、撃つと砲身が破裂することがあった。高任は素材の鉄がよくないからだと推測した。砂鉄を原料とするたたら製鉄によって造られた鉄を使用していたが、高任は岩鉄(磁鉄鉱)の鉄を使用すべきだと考え、100日間の休暇をもらい、鉄鉱石が産出される盛岡藩領の釡石へ調査に向かった。
結果、良質の岩鉄があることが分かったので、高任は最初の高炉を大橋地区に建てた。その後、高任門下の田鎖仲や田鎖源治が中心になって橋野地区にも高炉を建造していった。高炉とは、鉄鉱石から銑鉄を造る溶鉱炉のこと。高任はここ一帯で製造した銑鉄を那珂湊の反射炉に運ぼうと考えたのだ。ただ当初、水戸藩や盛岡藩の経済的支援はなく、人々の協力を募って私費で建てたという。
建設現場に外国人技術者がいるわけではない。洋書をもとにした設計図に沿って、高任ら技術者が指導し、日本の職人の手によって完成させたのである。しかも、単純に西洋技術を模倣したわけではなく、日本の伝統技術が巧みに盛り込まれていた。
大橋地区の次に造られた橋野の高炉は、花崗岩〈かこうがん〉を切り出し、石垣技術を用いて炉の基礎を巧みに積み上げ、内側に現・花巻市内で採取した粘土で焼いた耐火煉瓦を貼り付けていった。高さは7、8mに達したが、その周りを純和風の建屋で覆った。
約3㎞離れた採掘場から岩鉄を人や牛馬を用いて高炉近くまで運び、種焼場に入れ約800度で焼く。もろくなった岩鉄を人力で砕いて小さくし、建屋の上から炉に投じるのである。燃料は石炭ではなく、日本の炭焼き技術で作った木炭だった。近くを流れる川を引き込んで水路を造り、水車の動力で高炉に風を送ったが、この送風装置も日本古来の木製のふいごが使われた。なんと炉心部は約1400度の高温となり、岩鉄は還元され、銑鉄が生産された。
最初の大橋の高炉は、水戸藩がもつ反射炉への原料鉄供給のために設置された高炉だったが、安政の大獄で徳川斉昭が処罰されたことで、水戸藩の反射炉事業は頓挫。大橋の高炉は盛岡藩が使用することになった。盛岡藩ではこうした高炉群で生産した鉄を販売したり、鉄銭や刀、鉄瓶の原料にしたりした。
さて、高任は明治になると新政府に仕え、岩倉使節団に随行してヨーロッパを視察し、帰国後は一時、釡石製鉄所の建設のための調査に参加した。さらに佐渡金銀山をはじめ、多くの鉱山の近代化に貢献し、日本鉱業会の初代会長を務め、「日本近代製鉄の父」とよばれるようになった。そして明治34年(1901)、76年の生涯を閉じた。
一方、橋野地区の高炉群は廃藩置県後、民間企業の手に移って細々と稼働していたが、明治27年(1894)に閉鎖。それが戦後の昭和30年(1955)、発掘調査が行われ、その価値が評価されて、2年後に国指定史跡となり、さらに世界遺産に登録されたのである。
今も現地では発掘調査が進んでおり、今後、驚きの発見があるかもしれない。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『戦国武将臨終図巻』(徳間書店)。