河合 敦の日本史の新常識 第64回
かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。
声を上げ続けた藩士
思い描いた国のあり方とは

イラスト:太田大輔
倒幕運動が高まる中、内戦を回避し、普通選挙による議会政治を実現しようとした人物がいた。今回は、そんな知られざる赤松小三郎〈あかまつこさぶろう〉について紹介したい。
天保2年(1831)、上田藩士・芦田家に生まれた小三郎は、頭脳明晰で意気盛んだった。しかし、芦田家は十石三人扶持〈ぶち〉の下級武士で、小三郎は次男なので家は継げず、出世の道は閉ざされていた。
嘉永7年(1854)、小三郎は上田藩の下級武士・赤松家の養子に入り、この年、勝海舟の門人となる。翌年、勝が海軍伝習所の一期生に決まると、小三郎は藩の許可を得て勝と長崎へ赴いた。伝習所ではオランダ人士官から蒸気船の操縦をはじめ西洋の学問を体系的に学び、多数のオランダの原書を読破して数冊の翻訳書を出版した。
33歳になった文久3年(1863)、小三郎は藩に意見書を提出した。そこには「藩士は怠惰で危機を認識せず、富国強兵の必要を理解しない。正直で忠義な英才に軍事や経済を研究させ、藩政改革を断行すべき」とある。暗に有能な自分を登用せよと求めているわけだが、小三郎の意見は黙殺された。が、翌元治元年(1864)、第一次長州征討のため幕府が上田藩に出陣を命じると、小三郎は藩命により軍需品調達のため江戸・京都・大坂を行き来できるようになった。武力衝突が回避された後、小三郎は横浜に住むイギリス軍人のアプリンから英語や騎兵術を学ぶことを藩に許された。
小三郎は以後、アプリンの助言を受けつつイギリスの兵学書を翻訳、慶応2年(1866)に『英国歩兵練法』として刊行した。ミニライフルを用いたイギリス軍の散開〈さんかい〉戦法を初めて紹介する内容で、洋式軍を導入しようとする諸藩の注目を集めた。
前年、第二次長州征討が決まり、年が明けると、将軍・家茂〈いえもち〉が大坂城に入り、政治の中心は京阪地域に移った。上洛した小三郎は8月、長州征討に反対する意見書を幕府に提出。翌月には主君の松平忠礼〈ただなり〉に「身分にかかわらず軽輩でも意見が通るようにし、学術・才智の有無により人を抜擢すべき」と訴えた。
小三郎は京都で塾を開いて洋学や軍学を教授したが、その名が高まり、薩摩藩に雇用された。
その後、小三郎は会津藩士の山本覚馬と交流するようになる。覚馬はオランダに留学していた西周〈にしあまね〉ら新進気鋭の幕臣とも親しくしており、小三郎もその輪に入り、彼らに触発されて国家構想をまとめていった。
同年4月、薩摩藩の島津久光率いる歩兵・砲兵隊が上洛し、小三郎は彼らを含め約800名に英式調練を行った。教え子には東郷平八郎、野津鎮雄〈しずお〉、樺山資紀〈かばやますけのり〉、上村彦之丞〈かみむらひこのじょう〉ら、のちに日本軍の重鎮になる面々が含まれていた。
このころ、小三郎は前福井藩主の松平春嶽〈しゅんがく〉、島津久光、幕府と、立て続けにほぼ同じ内容の建白書(国家構想)を差し出した。優れていたのは、議会制度のプランだった。「上・下議会を創設する。上院は公家、大名、旗本のうち投票で30人を選ぶ。下院は諸藩から合計130名を選出するが、議員は身分に関係なく道理に明るい私心のない者を選挙で選ぶ。国事はすべて議会で決し、朝廷の許可を得て実施する。ただ、朝廷の反対があっても、最終的に議会の決議を優先する」
下院議員を、制限を設けない普通選挙で選ぶのは画期的だった。小三郎は新国家の実現に向け将軍・慶喜に接近したようで、幕府は小三郎を雇用しようとした。ところが因循〈いんじゅん〉な上田藩はそれを拒み、小三郎に帰郷を求めたのだ。小三郎は仮病で帰国を延ばしたが、上田藩はたびたび帰国を催促してきた。そうした中、覚馬が小三郎に薩摩と会津・幕府の関係修復を依頼してきたのだ。長州征討で幕府軍が敗北して以後、急速に薩長を中心に倒幕の動きが高まっていた。覚馬は内戦を回避すべく、薩摩とつながりの深い小三郎を頼ったのである。そこで小三郎は8月から幕府の若年寄・永井尚志〈なおゆき〉や薩摩の家老・小松帯刀〈たてわき〉、西郷隆盛らと接触し、融和や非戦を説いた。しかし、倒幕を決意していた西郷一派を翻意させることはできず、小三郎は失意のうちに上田への帰国を決意する。
が、小三郎が上田の地を踏むことはなかった。同年九月三日、薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)らに路上で暗殺されたのである。37歳だった。薩摩の軍事機密を握る小三郎が幕府のために動いているのをスパイとみなしたのだ。半次郎独自の判断か、それとも上の指示かは不明だが、犯人は長年分からず、葬儀は3日後に会津藩(京都守護職)の拠点・金戒光明寺〈こんかいこうみょうじ〉で行われ、小三郎に教わった薩摩藩士約400名が参列、島津家からは弔慰金が届けられた。
内戦を避け、普通選挙による新国家を目指した赤松小三郎の夢は潰え、それから4カ月後、戊辰戦争が勃発するのである。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)。
