河合 敦の日本史の新常識 第65回
かつて教科書で学んだ歴史は、新事実や新解釈をもとに定期的に改定されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
日進月歩の研究によって解明される〝新しい日本史〟や〝知られざる新常識〟について、歴史研究家・河合敦さんが解説します。
塩硝生産量は日本一!
世界遺産五箇山の合掌造り

イラスト:太田大輔
昨年11月に世界遺産サミットで講演をさせていただいた。毎年、世界遺産を有する自治体がもち回りで開催している大きなイベントで、今回で12回目を迎えた。開催地は五箇山〈ごかやま〉(富山県南砺市)。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」がちょうど、世界遺産に登録されてから30周年にあたるからだ。
合掌造りは、建築技術と建物群の景観が評価され、世界遺産に登録された。白川郷(白川村荻町〈おぎまち〉地区)と五箇山(平村相倉〈あいのくら〉地区、上平村菅沼〈すがぬま〉地区)は近接した地域にあるが、今回は五箇山に焦点を当てて紹介したい。五箇山という地名は、庄川〈しょうがわ〉沿いにある5つの谷間(赤尾谷、上梨谷〈かみなしだん〉、下梨谷〈しもなしだん〉、小谷〈おたん〉、利賀谷〈とがだん〉)が由来とされる。冬には積雪が約3mになる厳しい環境だが、江戸時代、加賀藩は周辺道路を整備せず、庄川への架橋も認めなかった。藩の流刑地だったことに加え、世界唯一の技術で塩硝〈えんしょう〉(火薬の原料)を大量に生産していたので、秘伝の製法が流出するのを嫌ったのだと思われる。
五箇山での塩硝生産は、戦国時代に始まる。石山本願寺(浄土真宗の本拠地)が織田信長と石山戦争を始めると、真宗門徒の多い五箇山で塩硝を製造させたのだ。生産は江戸時代以降も続き、質・量ともに日本一になった。その製法は、合掌造りの建物の床下で作るという極めてユニークなものだった。
ここで改めて、合掌造りの特徴を記しておこう。8代将軍・徳川吉宗が生糸の国産化を奨励したので、農民は屋根裏に蚕室を設けるようになり、兜造〈かぶとづくり〉や高八方〈たかはっぽう〉など各地で屋根が変形・巨大化する。合掌造りもこの時期に登場した。五箇山の家屋は2本の叉首〈さす〉(斜材)を屋根の棟で交差させるが、それが仏を拝む腕の形に似ているので「合掌造り」と呼ぶ。茅葺きの切妻屋根は巨大で、三角形を組み合わせたトラス構造が雪の重みや強風に耐える仕組みになっている。巨大な屋根裏は階層化され、明かり窓をつけて風通しをよくし、蚕室として利用した。
そんな巨大住宅である合掌造りの床下で、五箇山の塩硝は作られたのである。
室内には石組みの囲炉裏部屋があるが、その床下に壺型の穴を複数掘り、質のよい土、蚕糞、草を重ねて発酵させていく。屋内で養蚕をしているので原料の蚕糞には事欠かないし、囲炉裏の熱で冬も発酵のための適温が保たれる。土は年に数回原料を追加しつつ攪拌〈かくはん〉するが、立って作業できるよう床下は高くなっている。約5年で培養土が完成するが、以後は毎年、この土から塩硝を取り出すことができた。培養土を樽に入れて水を流し込み、出てきた溶液(塩硝が溶け込んだ水)に灰を入れ、ひたすら煮て濃縮を繰り返し、硝石の結晶(硝酸カリウム)を得るのだ。これを「灰汁〈あく〉塩硝」(純度は低い)と呼ぶ。
こうして各農家が製造した灰汁塩硝は、地元の富農が経営する上煮屋〈じょうにや〉に買い上げられ、中煮塩硝、さらに上質な上塩硝に精製される。上塩硝は20㎝を超える六角柱状結晶で、原則、すべて加賀藩が買い上げた。繰り返しになるが、こうした五箇山の塩硝製法はほかでは見られないものであった。
加賀藩では、毎年2000斤(約4t)の塩硝を五箇山から集め、一部は他所へ販売したが、大半は火薬にして備蓄していた。一向一揆など領民の反乱への備えだったり、最大の外様大名ゆえ、幕府との戦いに備えていたといわれる。
幕末、五箇山の塩硝製造が大きく変化する。嘉永6年(1853)にペリーの黒船が来航すると、対外戦争への危機感から火薬の値段は飛躍的に上がった。そこで加賀藩はたびたび五箇山に塩硝増産令を発し、塩硝生産者に金銭を貸与し、増産に次ぐ増産を行った。
だが列強との戦いは起こらず、戊辰戦争も終結すると、明治3年(1870)に加賀藩は五箇山からの塩硝の買い上げを停止した。その背景には、安価な舶来硝石の輸入が増えたこともあった。死活問題なので五箇山の農民は大いに反発したが、藩では農家に金銭を貸して紙すき稼ぎへの転身をすすめた。
翌年、廃藩置県で加賀藩は消滅してしまう。廃藩時、加賀藩は約560万tもの塩硝を備蓄していたといわれる。
そこで五箇山の人々は、新政府の陸海軍に塩硝の買い取りを求めたが、結局うまくいかず、伝統的な塩硝生産は廃れてしまったのである。代わりに養蚕が盛んとなり、地元にはいくつもの製糸工場や織物工場が設置されるようになった。
ただ、五箇山の塩硝の製法はそのまま伝わり、五箇山にある「塩硝の館」ではその製法を詳しく学ぶことができる。かつては冬期を中心に5カ月間雪に閉ざされた五箇山だったが、今は交通の便もよくなり、合掌造りが並ぶ見事な雪景色を堪能することができる。ぜひ厳冬期に訪れてみてはいかがだろうか。
河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。
早稲田大学大学院修了後、大学で教鞭を執る傍ら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組『歴史探偵』『日本史の新常識』出演のほか、著書に『オモシロ日本史』(JTBパブリッシング)。
