いつか泊まってみたい懐かし宿 第95回
新潟県十日町市
松之山温泉 凌雲閣
木造3階建ての秘湯の宿の
随所にあふれる遊び心と創意工夫
宮大工が腕を競い合った客室
まつだい駅を出た送迎バスは、棚田の美しい場所を何回か通過したが、山奥へ向かう感じはしない。松之山温泉入口の看板を通り過ぎると、小高い場所に杉木立を背景にした赤茶色の木造3階建てが見えてきた。
玄関前に設えた屋根の裏や、玄関、ロビーも皆洗練された格(ごう)天井。玄関の堂々とした欄間もさることながら、帳場(ちょうば)角の木肌が面白い大きな飾り柱や山の銘木にも圧倒された。ホームページには以下のように記されているが、昭和13年(1938)創建の建物全体が凝った造りだった。
ーー本館の客室は、群馬・渋川から呼び寄せた宮大工が1人1室ずつ担当して腕を競い合いました。このため、16室(現在は14室)すべての部屋がそれぞれ趣向を凝らした造りで、宮大工の創意工夫がほどこされ、斬新で、遊び心あふれる部屋となっています。ーー
通されたのは3階の白樺の間。色とりどりの小石や丸太の断面をあしらった踏み込みがあり、4畳半の次の間には浴衣や鏡台が用意され、8畳の本間には立派な本床の間が。さらに窓際は、6畳ほどの洋間になっていた。
仲居さんに建物に興味があるというと、何部屋か見せてくれた。素人目に見ても、明らかに作りが違う。床の間の龍鬢表(りゅうびんおもて)や網代の天井、床柱や廊下に面した障子窓まで全てが異なり、全館が昭和初期建築の資料館のよう。見ているだけでときめいてしまう。
3階だけが宮大工に競わせた部屋だと思っていたら、2階も同じ趣向で作られていた。違いは、3階は壁などのリフォームがされ小ぎれいという点。
部屋でひと休みしてから、周辺を少々散歩する。宿の裏にのびる遊歩道を登っていくと、松之山温泉街へ越えることもできるらしいが、今回は湯にじっくりと浸かりたい。帳場脇の廊下の上の壁際に飾られている太い鉄パイプは、創業時上総(かずさ)掘りの温泉掘削に使ったものだという。温泉はいくつかの通路を曲り下った新館の奥にあった。
近代的ですっきりした明るい大浴場で、微かに濁った温泉は自家源泉「鏡の湯」。84℃とかなりの高温だ。ナトリウム・カルシウム塩化物泉なので、口に含むと塩分と苦みが際立つ。松之山は日本3大薬湯に数えられるそうで、いかにも効きそう。浴用と飲用、両方に適しているという。ほかに源泉が異なる掛け流しの家族風呂もあった。
山の達人料理長の技に感服
夕食会場へ向かうと、食卓にはすでに十数皿が並んでいた。ということは、これでほぼ全部だろう。遠目に見て地味なものが多く、最初は「あれっ? これだけ」と思った。
しかし、一皿一皿観察するうちに評価は180度転換。どれもこれも松之山の声が聞こえてきそう。ほぼ全てが地元の山の幸だ。モグラというキノコの玉子豆腐やワラビやフキ、ヤマタケノコを使ったのっぺ汁、癖がなく香ばしさがあるアズキナのおひたし、フキノトウの酢味噌和え、ほどよいほろ苦さの木の芽(アケビの新芽)のおひたし、歯応えとぬめりが魅力のミズの浅漬け。同じワラビでも雪国のものはぬめりと風味の充実度が全く違う。料理長が料理を解説したチラシが置いてあるので、ありがたみが倍加する。
途中、松之山で醸されたどぶろくを頼むことにした。大昔、酒を食べると表現していたが、それが実感できる濃厚なお粥のようなどぶろくで、山菜の個性的な味わいと響きあう。
ほんの少量だったが印象に残ったのは、天然鬼グルミの胡桃豆腐、地元4種類の調味料を使った発酵豆富、つなんポークを高温の温泉でじっくりと加熱した湯治豚、マタタビの実の塩漬け、香りのよいウワミズザクラの花穂と若葉の塩漬け、アザミの葉の佃煮など。
建物ばかりに目を奪われていたが、山の達人料理長がいる宿として知られ、キノコ鍋には30種類近い山のキノコが入るという。山菜を楽しみながら、秋はいつ来ようかと思案していた
さいとうじゅん●1954年岩手県生まれ。ライター。テーマは島、旅、食など。おもな著書に『日本《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『旬の魚を食べ歩く』『島で空を見ていた』。近著は『島──瀬戸内海をあるく』(第1~第3集)、『絶対に行きたい! 日本の島』