いつか泊まってみたい懐かし宿 第100回

福岡県朝倉市

離れ宿 定心坊

日本庭園の中の風情ある離れ宿で
掛け流し天然温泉をひとりじめ

鍵と地図を渡されて宿泊棟に

甘木(あまぎ)観光の甘木中央バス停に姿を見せたあいのりタクシーは、ロングシートが主で、後ろから車椅子も積めるマイクロバスだった。平野から丘陵地帯に差しかかり、別荘風の建物も混じる住宅街のような一角で止まった。温泉施設、宅地、別荘地などが総合的に開発された地域らしい。

すぐ脇に古民家風の管理棟があり、そこでチェックインを済ませる。1泊2食の料金を先払いすると、宿泊棟を示した地図と鍵を渡された。それを見ながら自分で歩いていくシステム。

道を挟んで管理棟を囲むように立つ8棟ある古民家風の宿泊棟は、同じ系列の宿泊処山荘美奈宜(みなぎ)。塀や柵もなく車道沿いにさりげなくあるので、知らないとなぜ味わい深い家がここに集中しているか、疑問を抱きそう。

今晩泊まる離れ宿定心坊(じょうしんぼう)はそこから1、2分の所にあった。面白いのは、その間に一般の住宅が点在していること。新興住宅地に、豪勢な民家と離れ宿の宿泊棟が混在しているのだ。ただし、定心坊の宿泊棟は、立派な屋根つきの門がある土塀で囲まれ、道路から見えない庭に点在していた。

笹や灌木が植栽された間に蹲踞(つくばい)や鹿威(ししおどし)なども配された日本庭園の中を小径が縫い、8棟ある離れへと続いている。指定された「おとぎりそう」は利休鼠(りきゅうねずみ)の壁で、柿(こけら)葺きの玄関の庇にはシノブがついて風情を醸していた。

木の引き戸を開けると、右側が床の間付きの8畳の和室になっていた。奥は浴室らしい。玄関には大きな冷蔵庫もあり、自由にアルコールや飲み物を持ち込める。だから、最初に精算してしまっても大丈夫なのか。低い座椅子を用意してあるのは、足の悪いお年寄りへの配慮だろう。普通の床の間かと思った脇を見て驚いた。白い小石などを敷き詰めた坪庭風の空間になっていて、窓越しに岩風呂が見える。逆に、岩風呂からも坪庭が見えて、ゆったり感が増すわけだ。

自分だけの温泉で気兼ねなく

楽しみにしていた風呂は、天然温泉掛け流しの広々とした岩風呂になっていた。宿泊客は、15時から23時までと翌朝の7時から9時まで、掛け流しを楽しめる。また、掛け流しは止まるが、23時から翌7時の間も保温されていて入浴できるという。

4畳半はありそうな広々とした浴室に早速入ってみると、湯槽も足を伸ばして浸かることができる広さ。無色透明の肌がつるりとする滑らかな美人の湯系で、PH9・8というアルカリ性単純温泉だった。自分だけの温泉だから、気兼ねなく長湯ができて嬉しい。

温泉を楽しんだ後は、あまり暗くならないうちに周辺を散歩することにした。車道を数分登ると、筑後平野が一望される高台に出た。その近くの大きな建物の入口に、美奈宜の杜温泉美奈宜の湯という暖簾がかかり、レストランなども併設した温泉入浴施設になっていた。家族風呂もあるし、みやげ物もバラエティーに富んでいるから、休日などは家族連れで賑わうのだろう。

宿へ戻って間もなく、夕食が運び込まれた。2段重ねの松花堂弁当風。上段は、アジの南蛮漬け、チーズ豆腐、鶏そぼろ餡かけ大根、サーモン刺身とワカメ。下段は、鶏のから揚げと千切りキャベツ、揚げた里芋饅頭に、小鉢3点。それ以外に、鶏鍋、茶碗蒸しやデザートなど。食後も入ったが、寝る少し前にもう一度温泉に浸かった。

7時過ぎに起きると、掛け流しの音が聞こえた。早速、一風呂浴びて体を温める。朝食会場は、管理棟奥の囲炉裏を切った広間だった。指定された席には、サバの干物、温泉卵、味付けのりが並んでいる。後はバイキングで、ポテトサラダ、もろみ、各種漬けもの、キャベツの千切り、湯豆腐、大豆の煮物などを自由にとる方式。

部屋へ戻って、もう一度温泉。9時過ぎに掛け流しは止まったが、すべすべの湯は気持ちがいい。11時近くまで、部屋でゆっくりと寛いでしまった

さいとうじゅん●1954年岩手県生まれ。ライター。テーマは島、旅、食など。
おもな著書に『日本《島旅》紀行』『吐噶喇列島』『旬の魚を食べ歩く』『島で空を見ていた』。
近著は『島──瀬戸内海をあるく』(第1~第3集)、『絶対に行きたい! 日本の島』

(ノジュール2016年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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