[エッセイ]旅の記憶 vol.39
旅先のエヴェレストで蕎麦を喰いました
夢枕 獏
昨年の三月、ずいぶん久しぶりにヒマラヤへ出かけた。
ぼくの書いた小説『神々の山嶺(いただき)』が映画化されることになって、その撮影を、なんと五千数百メートルのエヴェレストのベースキャンプに近い場所でやることになっていたからである。これは、ぜひとも行かねばならない。ぼくにとっては、二〇年ぶりのエヴェレストだ。もちろん、自費である。映画の制作費を僕のプライベートに使うわけにはいかないからだ。
「エヴェレストまで蕎麦の出前をしますから」
監督の平山秀幸(ひらやまひでゆき)さんに、飲んだ勢いでそう言ってしまった。
それで、友人の蕎麦職人である太田伊智雄(おおたいちお)さんに、エヴェレストまでの出前をお願いしたのである。他に、メンバーは落語家の林家彦(はやしやひこいち)師匠、絵師の寺田克也(てらだかつや)画伯、合わせて4人でヒマラヤトレッキングをやってきたのである。
二〇年前、飛ぶように歩いたヒマラヤを、六十四歳となったぼくは、今回、這うようにして歩くこととなった。いかに運動していないかを痛感する旅であった。
で、蕎麦のことである。
太田さんは、特注の蕎麦打ちセットを持ってやってきたのだが、これが、重い。のし棒、蕎麦切り包丁、そしてのし台。これらをコンパクトにまとめたものを持っての道中である。
標高二七〇〇メートルのルクラから、毎日五〇〇メートルずつ高度をあげてゆくのであるが、途中、何度か蕎麦の試し打ちをする。何しろ標高五〇〇〇メートルを越えたところで蕎麦を打ち、茹でねばならない。しかし、その高度では、水は八〇度前後で沸騰してしまうため、蕎麦を何分茹でたらいいのかわからないから、宿に着くたびに実験で蕎麦を打つのだ。だが、これがなかなかうまくいかないうちに、撮影隊がベースにしているゴラクシェプに着いてしまった。
どうなることかと心配していたのだが、これが現地であっという間に解決した。なんと、撮影隊は、圧力鍋を持ってきていたのである。さすがに圧力鍋の威力はたいしたもので、なんとか地上で打つのと近いレベルのうまい蕎麦を、我々は、ヒマラヤの奥地で食べることができたのである。それにしても、使用できる水の量が限られている中、よくぞこれだけの蕎麦が打てたものである。
ああ、あの蕎麦は絶品だったなあ。
イラスト:サカモトセイジ
ゆめまくら ばく●1951年神奈川県生まれ。作家。
77年にデビュー後、82年のキマイラ吼・シリーズ、84年のサイコダイバー・シリーズなど人気シリーズを続々発表。
86年からスタートした陰陽師シリーズは、コミック化・テレビドラマ化・映画化され安倍晴明ブームを巻き起こす。
89年『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞、89年『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞、2012年『大江戸釣客伝』で吉川英治文学賞を受賞。
(ノジュール2016年3月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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