東西高低差を歩く関東編 第36回
地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。
小平~平坦な土地に
点在する謎の窪地
イラスト:牧野伊三夫
武蔵野台地の中央部には不思議な窪地〈くぼち〉が無数に点在している。その窪地とは2〜3m程度の高低差を持ち、川の源流となっているものもあれば、4方を斜面で囲まれた正真正銘なスリバチ状の地形もある。今回ご紹介するのは小平〈こだいら〉市周辺。小平市は江戸時代の新田開発で成立した7村が、明治22年(1889)の合併で生まれた小平村が起源。平らな地形の「平」に、最初に開拓された集落であった小川村の「小」をとって名付けられたものらしい。早速、小平市周辺の凸凹地形図を眺めてみよう。
まずは小平市役所の東側にある窪地に注目したい。この窪地は、元文4年(1739)創建の平安院が側にあることから平安窪と呼ばれている。4m程の深さがある4方を斜面で囲まれたまさにスリバチ状の窪地で、地元では「マツバ」あるいは「シマッポ」と呼ばれることもある。窪地の底には川の流れや暗渠〈あんきょ〉もなく、モヤモヤ感たっぷりの不思議な窪地だ。
市役所の西側には山王窪と呼ばれる浅い窪地があり、ゴルフ練習場に利用されている。東京都心にあるスリバチ状窪地の中には射撃場に活用された事例があるが、閉鎖的なスリバチ空間の活用法として共通性があるところが面白い。山王窪の北側にある浅い窪地は石塔が窪と呼ばれ、享保年間に始まった小川村新田開発発祥の窪地でもある。
小平駅周辺にある微妙な凹凸地形に目を移そう。駅の東側にあるのは天神窪、横切る多摩湖自転車道がほぼ平坦なため、現地にいけば窪地の高低差を実感できる。自転車道が真っすぐで平坦なのは、地下に水道管が敷設されているからで、多摩湖(東大和市)から境浄水場(武蔵野市)へと水を送り続けている。自転車道の脇の小さな窪地はあじさい公園として利用され、小川用水の水を引き込んだ池がある。小川用水とは玉川上水の分水の一つで、青梅街道と並行して流れ、水田灌漑用の水路として利用されていた。水利に乏しかった小平市周辺の土地は、玉川上水や小川用水などの水路網の成立によって新田開発が進んだエリアなのだ。
さて、これらの窪地がどのように形成されたのか、実は分かっていない。地形学の理学博士貝塚爽平氏は『東京の自然史』のなかで、不明点が多いと断りながらも窪地の成因について説明をしているので紹介する。一つの説は石灰岩地帯のドリーネと同じように、地下に堆積している関東ローム層が窪地直下では流されたとするもの。もうひとつは大雨の時に宙水があふれだし、地表を侵食するというものだ。宙水とは難透水層の上に溜まった地下水のことで、さらにはこのような窪地では水が溜まりやすいために、関東ローム層が水の作用で収縮したのではないかとも推測している。
凸凹地形図の範囲には前述の川の無い浅い窪地の他に、川の源流となっている窪地が二つほど存在する。その一つが小平霊園内にあるさいかち窪で、黒目川の源流となっている。池の水は降雨に左右され、冬季は枯池となることが多い。長雨が続くと湧水量も増え、窪地が水で満たされる。ちなみに黒目川は久留米川とも書き、東久留米市の由来となった。
そしてもう一つが石神井川の源流にあたる鈴木小学校のある窪地。一帯はかつて鈴木田圃と呼ばれ、昭和46年(1971)の鈴木小学校建設工事では旧石器時代の石器や焼礫が発見された。周辺は玉川上水の完成以前「逃げ水の里」と言われるほど水の便に乏しく、住む人もない荒野が広がっていた。だから水の湧き出る窪地はまさにオアシスのような存在だったに違いない。
平坦と思われる小平の土地も、地形の高低差に着目すると、好奇心が掻き立てられる歴史にたどり着く。武蔵野台地の高低差は見過ごしていた地域の宝ものを探し出すきっかけとなる。
皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに町の歴史を解き明かす専門家として『タモリ倶楽部』や『ブラタモリ』に出演。
著書に『東京スリバチ地形散歩』(宝島社)や『東京スリバチの達人/分水嶺北編・南編』(昭文社)などがある。
2022年にはイースト新書より『東京スリバチ街歩き』を刊行。
シリーズ化が始まった昭文社の『凸凹地図帳』と『スリバチの達人』の総合監修を務める。