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[エッセイ]旅の記憶 vol.81

チェコの『おっさん独り旅』

加藤 ヒロユキ

ちょっと大きなコンサートの仕事を終えると、僕はぶらりと旅に出る。特に五十才を越えてから、『おっさん独り旅』の味をおぼえた。「プラハからウィーンに行くのなら、その途中の世界遺産でもあるチェスキークルムロフに絶対に寄るんやで! 脱日常という貴重な体験ができる不思議な街や」とウィーン留学の経験がある音楽家の友人が教えてくれた。この舌を噛みそうになる街の名前、僕は生まれて初めて聞いた。

プラハから車で二時間強、旧市街の入り口である石橋の広場に到着。おおっ、いきなり谷川向うに見えるのは空に向かって伸びる街のシンボル、クルムロフ城の塔ではないか。まるでおとぎ話の絵本から抜け出したような姿だ。この街はヴルタヴァ(モルダウ)川が蛇行して、旧市街の周囲を円形に取り囲んだ独特な地形となっている。中心地にある広場には、パステルカラーで彩られた美しい建物が集まっていた。そう、ここはルネッサンスやゴシックなど、その時代に流行ったさまざまな建築様式の建物が現在でも美しく保存され、住居として利用されている。そのため、この小さな街全体が芸術作品のようであり、中世時代から時の流れが止まっているかのようだ。

ちょうどお昼時だったので、僕は川沿いにあるホテルのテラスレストランに入った。案内された席のすぐ真横には浅瀬の川がさらさらと音を立てて流れ、そよ風が心地いい。対岸は城壁で、座ってそのまま城塔を見上げる形となる。

すぐにビールを注文した。チェコは世界でいちばんのビール消費国だ。水よりビールの方が安いし、また美味い。僕は最近ビールを飲まなくなっていたが、ここでは頻繁に水代わりとして喉を潤していた。

突然、歓声が聞こえてきた。見れば、若者たちがカヌーで川をクルージングしている。楽しそうだなぁ。空になったダルマ型のジョッキを片手に持ち上げ、今度は黒ビールを注文。しばらくすると、郷土料理のグラーシュという牛肉の煮込みが出された。別皿のトマトとパプリカのマリネサラダの酸味がまたこれによく合う。

教会に入って黙祷をしたり、またまたビールを飲み、アイスクリームを食べながら街を当てもなくぶらついていたら、あっという間に半日が過ぎた。なんだか、溜まっていた緊張感や疲れがすっかりほぐされ、リセットされた。ヨーロッパでこんな経験をしたのは初めてである。

夕方、石橋には迎えのドライバーが来てくれていた。さぁ、これからウィーンに向かうとするか。


イラスト:サカモトセイジ

かとう ひろゆき
1965年京都府生まれ。テノール歌手。
京都大学経済学部在学中にピアノの弾き語り歌手としてデビュー。ジャズからオペラアリアまで幅広いレパートリーを持ち、ファン層も広い。
関西のラジオ番組(毎日放送・朝日放送)などのパーソナリティとしても長年活躍し、お洒落な語り口で人気。

(ノジュール2019年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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