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東西高低差を歩く東京編 第2回

地形に着目すれば、新しい姿や物語が見えてくる。
そんな町歩きの魅力を関西・東京で毎号交互にご紹介していく新連載。
第二回は、皆川典久さんによる東京・赤坂です。

わき道にそれてみたら、
そこはスリバチだった


イラスト: 牧野伊三夫

「盛り場」と土地の高低差には関係があるのだろうか?

先月号の梅林秀行さんの寄稿を拝読し、東京の盛り場の地形について思い返してみた。東京の代表的な盛り場といえば、浅草、歌舞伎町、池袋、赤坂といったところが思いつく。結論を先に言えば、東京の場合、盛り場は土地的に低い場所(低湿地や谷間)に位置することが多い。

例えば浅草の場合、浅草寺は隅田川の自然堤防すなわち微高地に建立された寺院であるが、盛り場として代表的な浅草六区などは後背湿地に位置する。新宿・歌舞伎町は蟹川という早稲田の田圃を潤した自然河川の上流部分で、緩やかな谷間に立地している。池袋の場合、もっとも盛り場感漂う一帯として、東池袋の美久仁〈みくに〉小路があるが、その周辺一帯は水窪川の源流域で元々湿地だった場所だ。そして赤坂の歓楽街も、溜池周辺の土地(田地・湿地)に江戸時代初期、開かれた町人地(赤坂田町)が起源なのだ。

確かに盛り場へ繰り出す場合、坂道を上ってゆくというよりも、坂を下るイメージがある。坂下の隠れ家的な場を求める心理があるようにも思う(自分だけかもしれないけれど)。東京の土地の高低差とは、地下鉄などで目的地へダイレクトにアクセスすると、過程が省略されるので気づきにくいが、歩いて向かうと意外なほどの大地の起伏に出会うことがある。

それでは土地の高低差を実感できる町として、都心の盛り場のひとつ赤坂の町を紹介したい。都会的で大人の町のイメージが強い赤坂であるが、凹凸地形図からは極めて起伏に富んだ土地にあることが分かる。赤坂の地名には「坂」がつくので、坂道が多いのはもっともなことかもしれないけども。ちなみに赤坂の名の由来は諸説あり、ひとつは紀州藩中屋敷(現在は赤坂御用地・迎賓館)があった頃、蔓植物のアカネが自生していたため一帯は赤根山(茜山)と呼ばれ、傍らの紀伊国坂を赤坂と称するようになったというもの。他にも美濃や三河など各地に存在する赤坂と同様に赤土に由来する、というのもある。

土地的に最も低いのは外堀通り周辺で、江戸時代には外濠の一部を形成した溜池があった谷間(低地)だ。溜池は江戸城南の下町一帯の水需要を賄うために築かれた人工湖だった。赤坂川という自然河川を、現在の虎ノ門駅付近に堰(ダム)を設け、水がめとしたものだった。堰には満潮時に海水が遡るのをくい止める役割(汐留)もあった。

「谷の専門家」として紹介したいのが、246青山通り裏手に位置する東西に長い谷間で、上流部にある薬研〈やげん〉坂で、その比高を実感できる。谷間を流れたのは太刀洗川と呼ばれた川で、1189年に梶原景季〈かげすえ〉が奥州藤原氏討伐に従軍するため平泉に向かう際にこの道を通り、落とした太刀をここで洗った、という逸話からその名が付けられた。古来より奥州街道沿いの人馬継ぎ立ての地であった一帯は、人継村(一ツ木村)と称していた。

太刀洗川の源流部は、現在の高橋是清翁記念公園。元々は丹波篠山藩青山家の中屋敷だった場所で、二・二六事件で生涯を閉じた高橋是清の自宅があった土地だ。谷頭としての土地の記憶を伝えるためか、庭園内には水の湧き出る井戸が設けられている。

なお、太刀洗川の谷間を、下りては上る薬研坂は「東京スリバチ学会」発祥の谷間でもある。坂下の谷底には、青山通りの町なみとは対照的な、レトロ感漂う静かな下町風情の町が息づいている。東京を歩き始めた頃、表通りから裏道にそれただけで、圧巻の高低差と見知らぬ谷町とに出会った衝撃。その場所こそが薬研坂。その新鮮な感動を「わき道にそれてみたら、そこはスリバチだった」と記し、東京ならではの谷間や窪地を紹介したのが拙著『東京スリバチ地形散歩(都市新発見編・路地大冒険編)』(洋泉社)だ。

寄り道をしたり、わき道にそれるのも悪くない。そこでは新たな発見や出会いがあったり、大切な何かが貴方を待っているかもしれないのだから。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。
地形を手掛かりに歩く専門家として、「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」に出演。
町の魅力を再発見する手法が評価され、2014年には東京スリバチ学会としてグッドデザイン賞を受賞した。
著書『凸凹を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)が10月25日に新装刊。

(ノジュール2019年12月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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