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東西高低差を歩く関西編 第5回

地形に着目すれば、新しい姿や物語が見えてくる。
そんな町歩きの魅力を関西・東京で毎号交互にご紹介していく連載企画。
第5回は梅林秀行さんによる京都、「本能寺の変」で知られる旧本能寺です。

崖の下の「本能寺の変」


イラスト:牧野伊三夫

天正10年(1582)6月2日の早朝6時頃、明智光秀は「眼下」の寺を見つめていた。その寺の名は本能寺という。そこには目覚めたばかりの彼の主君、織田信長がいた。世に言う、本能寺の変である。

本能寺の変は、史上屈指のミステリーだ。そもそも、なぜ光秀は信長を攻めたのか。光秀が信長の仕打ち(今の言葉でパワハラ)を恨んだ「怨恨説」、光秀自身が覇権を望んだとする「野望説」、第三者が光秀を操っていたとする「黒幕説」。さまざまな仮説が出ているが、どれも決定打に欠ける。近年では新発見史料をもとに、信長の四国政策(戦国大名長宗我部家への対策)の路線転換が大きく影響したのではとの解釈も浮上した。ただいずれにしても、光秀本人の証言がとぼしいため、本能寺の変の原因そのものはいまだ不明のままだ。

しかしただひとつ、はっきりわかっていることがある。それは本能寺の「地形」だ。事件当時、本能寺は現代の住所でいえば京都市中京区西洞院通錦小路上ル元本能寺町にあった。京都の市街地中心部のなかでも、やや西側の地点である。ちなみに本能寺は、後の豊臣秀吉の時代になって、そこから北東へ約1・5㎞の現位置(中京区寺町通姉小路上ル下本能寺前町)に移転しているのでやや注意が必要だ。

じつは本能寺は事件の当時、なんと「崖」の下にあった。あの織田信長が、京都の居所とした場所にしては不思議と思えないか。

京都の市街地は、意外と起伏に富んでいる。古代平安京が建設される前の地形が、今もかなりの範囲で地表に残されているのだ。とりわけ、信長滞在当時の「旧本能寺」周辺が特徴的な地形だった。そこには、深く、細長い谷が刻まれていたのである。谷の上下で、標高差は約4m。今も旧本能寺の場所に立つと、この場所が谷底に相当することがよくわかる。旧本能寺から東に眼を移すと、そこには急な上り坂(六角通)が視界に迫っているのだ。ちょうどこの坂を登った先が、戦国時代の京都市街地「下京」中心部にあたる。反対に当時の市街地から見ると、本能寺は急崖を坂道が降りた先に位置していた。

旧本能寺が位置した谷地形は、かつて流れていた自然河川「古西洞院川」が、完新世(約1万1700年前から現代)という、比較的新しい地質年代に刻んだものだった。したがって旧本能寺の周辺は、近年まで水はけが悪く、大雨が降ると浸水もしていた。結果、戦国時代の京都住民の視点では、居住に適さない「場末」的な雰囲気だったらしい。当時の京都を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、旧本能寺付近について、「町外れの、通常きわめて下層のもっとも賤しい人たちが住んでいる」(松田毅一訳)と書き残している。下水道などない戦国時代、京都市街地の生活排水は、雨が降るたびに旧本能寺へと流れ落ちていたことだろう。崖の下の悪臭ただよう場末の寺。これが信長の居所だったのだ。

あるいは、この旧本能寺の立地条件こそ、織田信長の京都に対する意識のあらわれと解釈できるだろうか。信長は京都に入らなかった/入れなかったのだ。信長と京都の微妙な距離感を見て取ることができるだろうし、さらにはそこに、信長の「限界」も垣間見えるだろう。

本能寺の変に話題を戻そう。事件前後の明智光秀の行動には不審な点が多い。やはり本能寺攻めという行動自体が突発的に感じられるし、事件後の処理も山崎合戦に至るまでどこか煮え切らない。周到な準備によって、光秀が信長を打倒したとはとても思えないところがある。

ただ、旧本能寺の現地を歩きながら感じることもある。光秀がさまざまな事情から、将来に少なからぬ不安を抱えたとして、もしも脳裏に主君信長の居所をふと思い浮かべたとしたらどうだろうか。もしも崖下の本能寺に向かって、軍勢を率いて駆け下りるとしたら。そしてそんな自分をイメージした瞬間、「魔」が差したとしたら。もしかして、光秀の背中を押したものは、本能寺の「地形」だったのかもしれない。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2020年3月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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