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河合 敦の日本史のウラ話 第7回

日本史がターニングポイントを迎える時、綺羅星の如く現れる、偉人、賢人、豪傑、美女たち……。
誰もが知っている歴史事件とその英雄たちの背景にある、教科書が教えないウラ話を、歴史家・河合 敦さんがご紹介します。

織田信長の才を見抜いた男
〝美濃の蝮〟斎藤道三


イラスト: 太田大輔

織田信長の舅として知られる斎藤道三〈さいとうどうさん〉。現在放映中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、俳優・本木雅弘の怪演が話題だ。

斎藤道三は、僧侶から油商人、そして大名にまで成り上がった人物として知られているが、近年、じつは道三は二人いたことが判明している。親子二代にわたる人生が、いつからか一人の生涯に凝縮され伝わってしまったわけだ。つまり、油商人から土岐〈とき〉氏(美濃〈みの〉〈岐阜県〉の国主・守護大名)の重臣に栄達したのが父親(長井新左衛門尉長弘〈ながいしんざえもんのじょうながひろ〉)のほうで、その後、美濃一国を手に入れたのが、息子・長井規秀〈ながいのりひで〉(斎藤利政〈さいとうとしまさ〉と改名。本当の道三)である。『麒麟がくる』でもこの説を採用している。

道三は、謀略で国を奪ったため「美濃の蝮〈まむし〉」の異名をもつが、この呼称も実は昭和になって創作されたもので、司馬遼太郎の歴史小説『国盗〈くにと〉り物語』で有名になった。今回は、近年の研究成果(木下聡著『斎藤氏四代』など)を参考に、史実の道三を追いたい。

斎藤道三が父から家督を継いだ頃、美濃では守護土岐氏の頼武〈よりたけ〉・頼芸〈よりのり〉兄弟が家督をめぐって争っていた。道三は頼芸を助けて頼武を国外へ追い払ったが、追放された頼武とその子・頼允〈よりみつ〉(頼純〈よりずみ〉)は、尾張(愛知県)の織田氏や越前(福井県)の朝倉氏の支援をうけ、その後もたびたび美濃へ侵攻してきた。天文15年(1546)、ようやく両者は講和を結び、頼允が頼芸から家督を譲り受けることに決まった。このとき頼允は道三の娘を正室に迎えて聟となったが、翌年、24歳の若さで死んでしまう。道三が暗殺したとの噂も流れたが、実際は病死だったらしい。ただ、頼允の弟・頼香〈よりたか〉がその後も道三と対立し、尾張の織田信秀に応援を求めると、天文17年、信秀が大軍で美濃国へ襲来。道三は劣勢ながらも巧みな戦術によって織田の大軍を撃退し、その後、頼香ら反対派をことごとく成敗した。翌天文18年、道三は信秀と和議をむすんで娘の濃姫を信秀の嫡男・信長に嫁がせて、国内の安定と隣国との和平を実現。ついに翌年、主君の頼芸を美濃から追放し、自らが国主の地位についたのである。

天文21年4月、道三は織田家を継いだ聟の信長と冨田〈とみだ〉村(現・愛知県一宮市)の正徳寺〈しょうとくじ〉で会見した。噂通りの「うつけ」かどうかを確かめるためだった。道三は街道筋の民家に潜んで、やって来た信長一行をのぞき見した。信長は猿使いのような奇抜な格好をしていたが、正徳寺に到着するとすぐに屏風をめぐらせ正装に着がえ、道三の入室を待ったのである。ところが、道三が室内に入ってきても平然と無視し、柱に寄り掛かったまま、あらぬ方向を眺めている。たまりかねた道三の家臣が信長に近づき「こちらが斎藤山城守〈さいとうやましろのかみ〉殿…」と言うと、「であるか」と述べ、形式どおりの対面を終えた。24歳の若者とは思えない図太さだった。道三は「さてはこのごろ、たわけをわざと御作り候よ」(太田牛一〈おおたぎゅういち〉著『信長公記』)と悟った。道三はこの時、信長の能力を瞬時に見抜いたのである。帰り道、家臣の猪子兵助〈いのこへいすけ〉が道三に「やはり、たわけでしたね」と語りかけると、道三は「やがて私の息子たちは、そのたわけの門外に馬をつなぐ(服従する)ことになろう」と述べたという。天文23年、51歳の道三は長男の義龍〈よしたつ〉に家督をゆずり、居城の稲葉山城を引き払って山下に移ったが、翌弘治元年(1555)11月22日に大事件が起こる。義龍が病だと偽って弟の孫四郎と喜平次を城に呼びよせ、斬り殺したのだ。しかも義龍は、自分の行為を山下の道三に伝えたのである。まさかの事態に仰天した道三は、ただちに館を焼きはらい、手勢を集めて山中へ撤退した。

一説には義龍の謀反は、自分が道三の実子ではなく、道三が追放した前守護・土岐頼芸の子だったという事実を知って犯行に及んだという話もあったが、最近ではこの説は否定されている。『信長公記』によれば、義龍は、父の道三が自分のことを愚か者だと軽んじ、寵愛する弟たちに家督を与えようとしたためだと書かれている。その後、道三と義龍は激しく敵対するが、国内武士のほとんどは義龍側に味方した。そして翌年4月、長良川〈ながらがわ〉をはさんで斎藤親子が激突、あっけなく道三は討ち取られてしまった。

他人をだまし、多くの人間を殺めて成り上がった梟雄〈きょうゆう〉・斎藤道三は、最後は我が子によって命を奪われて終わったのである。娘婿(信長)の将来性は見抜けても、我が子(義龍)の力量を見誤ったところに、この人物の悲劇があったといえよう。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・研究家。1965年東京都生まれ。
早稲田大学大学院卒業後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。テレビ番組「世界一受けたい授業」のスペシャル講師として人気を博す。
主な著書に『目からウロコの日本史』『世界一受けたい日本史の授業』『逆転した日本史』など。多摩大学客員教授。

(ノジュール2020年4月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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