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松尾芭蕉の句と日記で辿る

『おくのほそ道』の絶景

文=笹沢 隆徳(エイジャ)

日本を代表する俳人、松尾芭蕉。
彼はまた、自らを旅人と位置づけた人でもありました。
芭蕉は、紀行文『おくのほそ道』の中で、日本各地を訪れ、さまざまな絶景に出合っています。
当時(江戸時代)の描写と現在の風景を見比べながら、芭蕉の旅の足跡を辿ってみましょう。

『おくのほそ道』は
先人の足跡を辿る旅
日本の紀行作品の傑作のひとつといわれる、松尾芭蕉の『おくのほそ道』。これは元禄2年(1689)、芭蕉46歳の春から秋にかけて東北・北陸地方を旅した記録である。門人の河合曾良〈かわいそら〉を伴って江戸を3月27日に出立した芭蕉は、太平洋側を奥州平泉まで北上し、そこから奥羽山脈を越えて日本海側へ出て、秋田県から日本海沿いに南下。8月20日過ぎに岐阜県の大垣〈おおがき〉に到着し、結びの地とした。この間およそ150日、距離にして約2400㎞という長旅だった。飛行機や鉄道、バスなどのない時代。多いときは、1日に50㎞歩くこともあったという。『おくのほそ道』には、この旅先で芭蕉が感じたことや現地の人々との交流の様子などが、日記と50もの俳句を交えてしたためられている。なかでも松島や山寺といった絶景地の記録は、現在でも折り紙つきの観光名所となっているのはご存じのとおりだ。

人々は、さまざまな目的やテーマをもって旅をする。芭蕉の時代もそれは変わらない。彼の旅の目的は、平安時代の歌人・能因〈のういん〉法師や西行の足跡を辿り、先人たちの歌に詠まれた歌枕や名所旧跡を訪れることだったというのが通説だ。

単なる物見遊山の観光旅行ではなかっただけに、芭蕉が訪れたのはいわゆる現在の観光名所ばかりではない。そのうえ、芭蕉が歩いた時代から300年以上の歳月が流れているため、当時の風景をしのぶのが難しい場所もある。しかしそのぶん、芭蕉が行く先々で詠んだ俳句や書き残した日記が、その土地の美しさを教えてくれる。

人生は旅と思い定め
住み慣れた江戸を離れる
『おくのほそ道』の旅は、月や太陽、人生を旅人になぞらえた「月日は百代〈はくたい〉の過客〈かかく〉にして、行き交ふ年もまた旅人なり(月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎる年月もまた旅人のようなものだ)」という有名な書き出しで始まる。当時、芭蕉はそれまで住んでいた江戸・深川の芭蕉庵から、近くにあった門人の別宅である採茶庵〈さいちゃあん〉に居を移していた。ここで門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立った。

日光街道を北上して粕壁〈かすかべ〉(春日部)で初日の宿を求めた芭蕉は4月1日、徳川家の霊廟である日光東照宮を訪れた。現在でこそ観光地である東照宮も、当時は一般には非公開。芭蕉は紹介状を持参していたが、折しも狩野探幽〈かのうたんゆう〉の長男である幕府御用絵師の探信〈たんしん〉が修復作業の真っ最中。拝観までかなり待たされたという。それだけに、将軍家の威光に満ちた陽明門との対面は、芭蕉に大きな感動を与えただろう。翌日に訪れた裏見の滝は、スケールの点では日光を代表する華厳〈けごん〉の滝に及ばないが、行者の修行場だったというだけあって、穴場のような雰囲気。芭蕉の時代は、滝の裏側から眺めることができたという。歌枕である裏見の滝は訪れても、華厳〈けごん〉の滝にはまったく興味を示していないところが、この旅の性格を物語っているようだ。

日光を後にした芭蕉は那須野の田園風景のなかを歩き、知人のいる黒羽〈くろばね〉に到着。ここでの滞在は旅程中では最長の14日に及び、人々との交歓を楽しんだ。その滞在中に訪れた雲巌寺〈うんがんじ〉は、芭蕉の師である仏頂〈ぶっちょう〉和尚の臨終の地。境内の参拝は可能だが、現在も禅の道場で観光寺院ではないため、凜とした雰囲気に包まれている。特に、朱塗りの反り橋が新緑に映える山門正面の風景は見事。この寺は紅葉と雪景色の美しさでも定評がある。

黒羽を後にした芭蕉が向かったのが、謡曲の題材にもなった殺生石〈せっしょうせき〉。岩だらけの荒涼とした風景の中に硫黄のにおいが立ちこめる殺生石は、有毒ガスが吹き出す不毛の地で、江戸時代から観光地として有名だったようだ。芭蕉の時代には現在よりも強烈なガスが噴出していたといわれ、それは日記に記された死の描写からもうかがえる。

次に訪れた遊行柳〈ゆぎょうやなぎ〉も能楽や謡曲の題材としておなじみで、西行が歌に詠んだことでも知られていた場所。田園風景の中に立つ単なる柳に過ぎないが、西行を敬慕する芭蕉にとっては感動の絶景だったにちがいない。周辺には豊かな自然が残されているため、西行や芭蕉が見た当時の風景をしのぶことができる。

この後、4月20日から21日にかけて、芭蕉は白河の関を越えた。江戸時代はここから先がみちのくである。「白河の関にかかりて、旅心定まりぬ」という日記の一文に、この先の旅における芭蕉の期待が読み取れる。

(ノジュール2020年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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