東西高低差を歩く東京編 第10回

地形に着目すれば、新しい姿や物語が見えてくる。
そんな町歩きの連載第10回は、東京・渋谷。
東京屈指の盛り場の変遷にも、高低差が関係していました。

坂の上の「盛り場」、
渋谷・円山町


イラスト:牧野伊三夫

「盛り場」は土地の高低差でいえば、低い場所にあることが多いように思う。東京の場合なら浅草六区を代表例に、赤坂や新橋、柳橋など、いずれも川や運河沿いの低地、あるいは海際などのウォーターフロントに立地している。けれども『ノジュール7月号』の京都高低差崖会・梅林秀行崖長の寄稿によれば、京都の場合も同じ傾向にあるとしながら、東山にあった「六阿弥〈りくあみ〉」のように標高の高い場所に存在した例もあるのだそうだ。現在その六阿弥がどうなっているのか、とても気になるところだ。

というのも、東京においても「山」と呼ばれる場所に、浅草六区を凌ぐとも評された「盛り場」が存在していた。過去形なのは、盛り場としての隆盛は過去のものとなり、現在はその残像を垣間見る程度となっている。その町とは渋谷の道玄坂を上った先にある円山町。「100年に一度」とも呼ばれる再開発が各所で進行し、東京の中で最もホットな街のひとつ、渋谷だが、円山町は渋谷の町外れに位置する隠れ家のような場所だ。

そもそも渋谷駅周辺は、城下町江戸にとっては辺境の地だった。渋谷川が江戸の境界に相当し、川より西は、のどかな農村地帯が広がる未開の地・江戸にとってはフロンティアだった。円山町へと至る「道玄坂」の名も、この地に出没した盗賊大和田道玄の名に因むとされるくらいだ。

円山町が盛り場へ発展するきっかけをつくったのが、スリバチ状の谷底から湧き出た清水だった。それは空からはち鉢仙人ゆかりの霊水として「神仙水」と呼ばれ、弘法大師の開湯伝説とも結びつけられて、江戸時代後期には「弘法湯」と呼ばれる浴場が有名になっていた。明治になると浴場の隣に「神泉館」という料理屋兼旅館ができ、より多くの人で賑わった。それらが立地したのは京王井の頭線の神泉駅のすぐ近く。狭隘〈きょうあい〉な谷地形の底に湯屋があったことを示す石碑が立てられている。

明治20年(1887)には弘法湯の前に芸者屋「宝屋」が開業、やがて芸者屋や料理屋が増えてゆき、隣接する円山町へと範囲を広げていった。円山町はその名の通り丘の町で、そう呼ばれるようになったのは昭和に入ってから。以前は鍋島藩の荒木氏が所有していたので「荒木山」と呼ばれていた。大正2年(1913)には、三業地(料理屋、待合、芸妓屋の許可地)として指定され、隆盛期に入る。

さらには円山三業地に隣接するかたちで「百軒店〈ひゃっけんだな〉」と呼ばれる大規模再開発が行われた。今ならば〇〇ヒルズとも名付けられそうな、丘の上の町・円山町を渋谷の中心街へと押し上げる一大プロジェクトだった。それは西武の前身である箱根土地開発が、中川伯爵邸だった丘の上の土地を分譲し、関東大震災で被災した東京下町の名店を誘致したものだった。甚大な被害を受けた上野や銀座などの下町と比べると円山町一帯は被害も軽微であったため、その復興事業的な側面もあった。聚楽座(劇場)やキネマ座(洋画封切館)、上野精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂など117店が「百軒店」に集まった。

賑わいの中心地が移動することは、どの町でも起こり得る。百軒店に誘致された店は、銀座や浅草の復興が進むにつれこの地を去り、昭和20年(1945)の東京大空襲で一帯は全焼してしまう。戦後は「公園通り」へと賑わいが移り、さらに近年では、センター街や渋谷駅周辺が脚光を浴びている。渋谷カルチャーの震源地は高台から低地へと移動したようにもみえる。けれども現在の円山町にはラブホテルやクラブ、ライブハウスなどが集まり、この土地ならではの文化を発信し続けている。華やかだった盛り場の空気感をどことなく宿しながら。

渋谷には、円山町をはじめ異なるキャラクターの町が寄せ集まった「町の博物館」のような一面がある。歴史や文化を堆積させ、変化や多様性も受容する渋谷、そんな町を育んだきっかけも土地の高低差にありそうだ。

皆川典久 〈みながわ のりひさ〉
東京スリバチ学会会長。地形を手掛かりに歩く専門家として、「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」に出演。
町の魅力を再発見する手法が評価され、2014年には東京スリバチ学会としてグッドデザイン賞を受賞した。
著書『凸凹を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)が10月25日に新装刊。

(ノジュール2020年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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