河合 敦の日本史の新常識 第4回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

それは畿内なのか九州なのか。

邪馬台国論争、ついに決着?


イラスト: 太田大輔

2021年の正月は、初詣でコロナ禍の終息を願う方も多いだろう。神社への正月参詣が一般化したのは江戸時代のことだが、神社そのものは遥か昔から存在する。伊勢神宮、出雲大社、宗像(むなかた)大社、住吉大社などからは、古墳時代の祭祀遺構も出土しているが、なかでも日本最古の神社ともいわれる奈良県の大神(おおみわ)神社は、本殿を持たないという古い形態を有している。それは、背後にある三輪(みわ)山自体をご神体として、拝殿から拝むようになっているためだ。

そんな三輪山の北西麓一帯に広がるのが、纒まきむく向遺跡(桜井市)である。この地域は、大和政権の発祥地だといわれる。初期の大型前方後円墳が集中しているからである。わかりにくいので、少し解説を加えよう。前方後円墳はやがて全国に広がるが、それは纒向地域の豪族たちが各地を平定していくなかで、服属者に自分たちの墓制を強要した結果だと推測できるからである。また、纒向には全国の土器が集まり、土木工事に用いる工具が多く出土しているが、農具は出土していない。つまり、農村ではなく都市(宮)だったと推察されるのだ。

そんな纒向遺跡だが、近年は「邪馬台国の所在地でもあった」という説が有力になっているのである。邪馬台国といえば、ご存じのように女王卑ひみこ弥呼の支配する国だが、その位置を記した唯一の書物『魏(ぎし)志』倭人伝の記述があいまいなため、そのとおりの方角と距離を進むと、日本列島を通り越して太平洋に落ちてしまう。このため明治時代になると、所在地をめぐって論争が勃発する。その発端は、畿内(近畿)説をとなえた京都帝国大学の内ないとう藤湖こ南なん氏に対し、東京帝国大学の白しらとり鳥庫くらきち吉氏が九州説を発表したことにある。以後、さまざまな説が出されてきたが、未だに場所は特定できていない。

畿内説を主張する人々は、卑弥呼の鏡を根拠のひとつとする。卑弥呼が魏に使いを送ったとき、魏の皇帝から百枚の銅鏡をもらった。その時期の年号をもつ鏡が纒向遺跡周辺の古墳から多数発見されたのだ。また、言語学的に「大和(奈良県)」と「邪馬台」が同系列の音韻であること、さらに倭人伝に書かれている行程が、魏の都・洛陽(らくよう)から大和までの距離と一致することも根拠にしている。ただ、倭人伝の記述と方角が合わないことが大きな弱点だ。

対して九州説は、方角は合うが距離が短すぎるのが難点だった。それを新解釈で解決したのが、東京大学名誉教授の故・榎一雄(えのきかずお)氏である。彼は倭人伝における大陸から伊都国(いとこく)までの行程の記述の仕方と、それ以後の国々の記述の仕方が異なることを根拠に、「大陸から伊都国までは直線的に解釈し、それ以後は伊都国からそれぞれ放射線状にとらえるべきだ」と主張した。確かにそうすると、邪馬台国は見事に九州内におさまる。ただ、邪馬台国には7万戸の家が並んでいたとされているが、それほどの規模を有する地域をしばらくの間特定できないでいた。そんななか、1986年に50haの広さをもつ弥生時代の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)が見つかり、素晴らしい環濠や巨大な建物跡、膨大な遺物が発掘されたことから、「この地こそ邪馬台国だ」と一躍注目され、1990年代には高校日本史の教科書にも掲載されるようになったのである。

いっぽう、纒向遺跡内でも2009年に、卑弥呼と同時代の最長20m近い大型の建物群が発見された。今度はがぜん纒向に注目が集まる。さらに国立歴史民俗博物館の研究グループが、卑弥呼の墓だといわれる箸墓(はしはか)古墳(纒向遺跡内)を放射性炭素年代測定法を用いて計測した結果、「箸墓古墳は西暦240〜260年の間に造られた」ことが判明したのである。これはまさしく卑弥呼の活躍時期とピタリと一致する。そこで同博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)名誉教授が「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と断言したのだ。その後も、卑弥呼時代の建物跡や巨大な溝などの発見が相次いだ。この結果、日本史の教科書の記述に変化が表れたのである。

いまも教科書の邪馬台国論争の箇所には、畿内説と九州説が併記されているものの、「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍)と表記する教科書が登場し、畿内説が有力になっている。

まだまだ論争に決着がついたわけではないので、これからも新しい発見があれば、情勢は変化するかもしれない。誰もが納得できる根拠が発見されるまで、今後の考古学の成果に期待したい。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京都生まれ。
早稲田大学大学院卒業後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組「世界一受けたい授業」のスペシャル講師として人気を博す。
主な著書に『目からウロコの日本史』『世界一受けたい日本史の授業』『逆転した日本史』など。多摩大学客員教授。

(ノジュール2021年1月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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