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東西高低差を歩く関西編 第21回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

船岡山、地殻変動が生んだ

「チャート」の霊山


イラスト:牧野伊三夫

京都市北区の市街地に、ぽつんと佇む独立丘がある。標高111m、周囲との比高差が約40mの船岡山である。小さいながら存在感のある山で、平安時代に清少納言も『枕草子』で「岡は船岡」と特筆したくらいだ。たしかに周辺のどこからでも、船岡山は視界に入ってくる。気になる山、いや丘である。こんなところになぜ独立丘があるのだろうか。

日本列島は数百万年前から、東西方向から圧縮作用を強く受けている。これは日本列島を構成する複数枚のプレートが押し合いへし合いする中で、約300万年前からフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下にもぐり込む「角度」に変化が生じたためと考えられる。つまりは教科書に必ず登場する「プレートテクトニクス」の働きだ。そして約100万年前から特に東西圧縮の力が強まり、とりわけ日本列島西半部には盆地と山地が繰り返される特徴的な凸凹地形が次々に形成された。この地殻変動を一般に、「六甲変動」という(神戸市六甲山が名称由来)。船岡山が含まれる京都盆地も、この六甲変動によって生まれた。

ここで京都西北部の地質図を見ると、船岡山から西側一帯の「チャート」の分布に気づくだろう。チャートとは、2億年以上前のはるか昔の赤道付近の海底で、放散虫というプランクトンの死骸が積み重なってできた岩石だ。それが長い時間の中で、プレートテクトニクスの作用によってユーラシア大陸の近くまで運ばれ、大陸の縁辺部に付け加えられていった。そのうえ約100万年前からの六甲変動が、チャートを大地のシワのように隆起させたのである。結果、京都盆地の周囲にはチャートからなる山地が多い。船岡山も元々は、六甲変動によって隆起したチャート山地の一部だったのだ。

仕上げは河川の侵食作用である。京都盆地西部のチャート山地に向かって流れる紙屋川が、数十万年の時間をかけてチャートからなる尾根の間を削り取り、大文字山と船岡山を分離させた。地学用語では侵食作用で削り残された地形を「残丘」というが、船岡山は最終的に、隣接するチャート山地から切り離された残丘として京都盆地に浮かぶ独立丘となったのだ。

このように船岡山の成因には京都盆地、そして日本列島そのものの成り立ちが大きく関わっていることがわかるだろう。プレートテクトニクス、六甲変動、チャート、そして残丘。船岡山を生んだ地形発達には、ストーリーが幾重にも埋め込まれている。

このような船岡山に対して、特別な意味を見出したのが平安京の人びとである。船岡山が平安京の真北に位置することから、どうやら霊的な防衛ラインと見なされたらしい。「虫」や「疫神」さらには「御霊」(怨霊)といったまがまがしい存在たちを祓う儀礼が、この小さな丘を舞台にたびたび催されている。平安時代後期以降、船岡山には「蓮台野」という京都最大級の共同墓地も設置された。鎌倉時代には兼好法師が『徒然草』にて「鳥部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし(鳥辺野や船岡、それ以外の野山に送る死者の数多い日はあっても、誰も送らない日はない)」と記したように、有名な鳥部野(鳥辺野)と同格の葬送地として位置づけられていたようだ。いわば都と異界の境界として、船岡山は意味づけられたということだろうか。

京都を訪れた際は、船岡山にもぜひ足を運んで欲しい。西側斜面から山頂にかけて、巨大なチャートの露頭群が眼前にそびえ立っているはずだ。よく見ると、チャート露頭のひとつには阿弥陀如来らしき「磨崖仏」も刻まれている。いったいどこに迷い込んでしまったのかと、峨々たる岩の風景に旅人は戸惑うかもしれない。地球規模の地殻変動が、京都盆地に小さな丘を生み、人びとの心に霊的な存在を示唆する世界観を生んでいったのだ。京都の北部には地殻変動が生んだチャートの霊山がある。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2021年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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