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岡倉天心が愛した
妙高高原、その歴史
取材=田中佐和 写真=福島健一
越後富士〈えちごふじ〉、須弥山〈しゅみせん〉とも呼ばれる妙高山〈みょうこうさん〉は標高2454m。山岳信仰の霊山として古くから修験者に崇められてきた歴史があり、長きにわたって一般に入山が禁じられた。一方、妙高山と隣り合う赤倉山〈あかくらやま〉では文化13年(1816)に地獄谷の源泉から引湯に成功。日本唯一の藩営温泉として誕生したこの赤倉温泉は、湯治場、そして北国街道〈ほっこくかいどう〉の宿場町として発展していく。
鉄道が整備されたことも奏功し、やがて多くの文人、名士らがこの地を訪れるようになる。全国にその名を広めることに大きく寄与したのが「日本近代美術の父」と称される岡倉天心〈おかくらてんしん〉。明治39年(1906)、家族とともに初めて訪れ、「こゝ、あゝ、妙高高原こそなり、霊感満ち満つ、世界一!世界一の景勝の地!」と、激賞の言葉を残した。翌年には別荘を建てている。当地に惚れ込んだ天心は、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようと計画し、創設した日本美術院をここに移してフランスのバルビゾンに負けない芸術の発信地にしようとしたのだ。周囲の賛同を得られず計画は実現しなかったが、天心自身は、以来、毎夏訪れ、晩年を過ごした。
天心の別荘、赤倉山荘の管理を任されていたのが、赤倉温泉開湯当初からの歴史を誇る遠間旅館〈とおまりょかん〉。六代目の遠間和広〈とおまかずひろ〉さんは、天心にまつわるさまざまなエピソードを代々伝え聞いてきたという。「彼を魅了した一番の理由はなんといっても豊かな自然です。当時、天心はインドに親しくしていた女性がいたそうですが、彼女に宛てた手紙に〝ここでは窓から雲が入ってくる〞といった素敵な表現で妙高特有の霧について書いています。美術品の目利きであった天心は、素晴らしい弟子を育てた〝人の目利き〞でもあり、素晴らしい芸術が生まれる〝景勝地の目利き〞でもあったのでは」と語る。
大正に入ると弁護士、小出五郎〈こいでごろう〉、侍医頭〈じいのかみ〉(旧宮内省侍医寮の長官)入澤達吉〈いりさわたつきち〉などの名士らが妙高倶楽部〈みょうこうくらぶ〉を結成し、界隈の開発に務めた。後に細川侯爵や久邇宮家〈くにのみやけ〉の別荘も立ち、高級避暑地、冬のスキーリゾートとして名を馳せるようになった。昭和に入り、国が国際リゾートホテルの建設に力を入れるなかで、高原リゾートの草分けとなる赤倉観光ホテルが誕生する。