河合 敦の日本史の新常識 第11回

ノジュール読者世代が「歴史」を教科書で学んだ時代から、はや数十年。
じつは歴史の教科書は、新事実や新解釈をもとに定期的に改訂されていて、むかし覚えた常識が、いまや非常識になっていることも少なくありません。
〝新しい日本史〟の〝新しい常識〟について、歴史家・河合敦さんが解説します。

学問の神で知られる菅原道真は

祟りをなした怨霊だった


イラスト:太田大輔

630年に始まった遣唐使は、奈良時代には約20年に一度派遣され、進んだ文化や技術を日本に取り入れてきた。しかし唐の治安が不安定になると、遣唐大使に任命された菅原道真〈すがわらみちざね〉は894年に遣唐使の廃止を建白した。皆さんも昔「白紙に戻そう、遣唐使廃止」と習ったことでしょう。ところが、建白後も道真は遣唐大使を解任されておらず、その後も遣唐使派遣の計画が持ち上がっていることから、近年「廃止」というのは正しくないとされ、歴史教科書では、遣唐使の「停止」とか「中止」と呼ぶように変わっている。

菅原道真は学者(中級貴族)の家に生まれ、18歳で式部省の文章生(官僚)の試験にパスし、26歳のとき方略試(最難関の官僚試験)に合格した秀才だった。その後、各省の役人を歴任し、877年には学者のトップといえる文章博士になったが、さらに蔵人頭、中納言、大納言と出世を重ねていく。

道真を抜擢したのは宇多天皇である。大きな力を持つ藤原氏(北家)に対抗させるためだった。実力者の藤原基経が死ぬと、宇多天皇は道真に政治をとらせ、さらに皇太子の敦仁親王(後の醍醐天皇)の教育も任せた。

897年、宇多天皇は13歳の敦仁に譲位するが、このとき彼に「道真と藤原時平(基経の長男)の助言にしたがって政治をとるように」と命じたほどだった。道真は右大臣にのぼり、901年には時平と同じ従二位という高い位についた。けれど、こうした出世が貴族たちの反発を呼び、これをチャンスと考えた時平は、醍醐天皇に対し「道真があなたの位を降ろし、自分の娘婿の斉とき世よ親王(醍醐天皇の弟)を即位させようと企んでいる」と告げたのだ。

醍醐天皇はこの話を信じ、道真を大宰府〈だざいふ〉へ左遷してしまった。2年後、無念の涙をのみながら道真は死去。それから5年後、藤原菅根が雷にあたって死んだ。菅根は道真の弟子だったのに、師の失脚に加担した人物。さらに翌年、道真を不幸に追いやったライバルの時平が、39歳の若さで急死したのである。

この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病などの変異が毎年発生するようになった。このため「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されはじめる。

923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が、21歳の若さで亡くなった。保明は時平の妹・穏子〈おんし〉が産んだ子だったので、醍醐天皇も「道真の祟りではないか」と考えるようになり、道真の大宰府行き(左遷)を命じた勅書を破棄し、道真の地位を右大臣に戻したうえ正二位を追贈した。しかし、新たに皇太子となった保明の子・慶頼王〈よしよりおう〉も2年後に5歳で夭折。930年には御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫〈きよつら〉と右中弁〈うちゅうべん〉の平希世〈まれよ〉が雷に打たれて亡くなったのである。これに衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、皇太子の寛明親王(保明の弟)に皇位を譲り、その年のうちに崩御してしまった。

「道真が雷神となって人々を殺した」とおののいた貴族たちは、右近馬場の地に北野天満宮を創建することを認め、祟りをなす雷神として道真を祀るようになった。道真は生前、学問に優れていたことから、雷神という怨霊から詩文の神と意識され、鎌倉時代や室町時代になると、北野天満宮で歌合わせや連歌の会など文化的な行事が開催されるようになり、人々も学問や芸能の進展を願ってこの社に詣でるようになったのだ。こうして道真は学問神となったのである。現在は北野天満宮のほか、太宰府天満宮、大阪天満宮、亀戸天神、湯島天神、防府天満宮など、道真を祀る神社は一万二千社になるという。

なお道真の祟りについては、十数年前から日本史の教科書に載るようになっている。たとえば『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)では、半ページにわたって大きく『北野天神絵巻』(北野天満宮蔵)を載せ、キャプションとして「藤原氏によって大宰府に追いやられた菅原道真は、903年、無念のうちに亡くなりました。当時の人々はその霊が雷神となって都に戻り、藤原氏のいる清涼殿に雷を落としたと信じました」と記載されている。さらに、道真の肖像を載せた「右大臣から学問の神様へ」というコラムをもうけ、「彼の死後、天変地異が続いたため、天神信仰発祥の地である北野天満宮に祀られ、今でも学問や芸能の神様として信仰されています」と記されている。

このように現在の歴史教育の現場では、怨霊という存在が歴史を動かしていた事実をしっかり教えているのである。

河合 敦〈かわい あつし〉
歴史作家・歴史研究家。1965年東京都生まれ。
早稲田大学大学院卒業後、日本史講師として教鞭を執るかたわら、多数の歴史書を執筆。
テレビ番組「世界一受けたい授業」のスペシャル講師として人気を博す。
主な著書に『目からウロコの日本史』『世界一受けたい日本史の授業』『逆転した日本史』など。多摩大学客員教授。

(ノジュール2021年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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