東西高低差を歩く関西編 第23回

地形に着目すれば、土地の歴史が見えてくる。
“高低差”の達人が紐解く、知られざる町のストーリー。
関東は皆川典久さん、関西は梅林秀行さんが交互にご案内します。

三条大橋

「考古地理学」から考える


イラスト:牧野伊三夫

地形で歴史を語れるだろうか。昨今の「地形ブーム」は研究・趣味を問わずすっかり市民権を得た。しかし地形と歴史の関係を語るうえで、留意したい点がある。それは本来的に自然の営為である地形と、人間活動の現れである歴史では、そもそも時間測定の「尺度」が異なるということだ。

自然地理学の世界では、地形の変化を検討するうえで時間軸の一般的な単位は百万年(Ma)である。1Maで百万年、2Maで二百万年という数え方をする。もう少し微細な単位で分析したいときは、千年(Ka)という単位も使用する。

一方、歴史分野である。文献史料を扱う分野では四半期(25年)が多用されるし、無文字社会を扱う考古学では、土器などの変遷からおおよそ30年幅で社会の変化を見る傾向にある。

ここでおわかりだろう。自然地理分野と歴史分野では用いる時間尺度が大きく異なるのだ。人間活動を考える際、地質学の百万年あるいは千年という時間尺度はいくらなんでも長期に過ぎる。そのため、地形変化と人間活動の関係を語る際には、もっと目の細かな尺度が必要となる。そこで注目されるのは、自然地理学と考古学を応用した「考古地理学」という研究手法だ。それは発掘調査の成果を通じて、出土した土器などの変遷を用いた考古学の時間尺度から、地形の細かな変化を追っていく手法で、まさしく人間活動のスケールに応じた地形変化について検討を可能にするものだ。

この考古地理学によって判明した地形変化が、「古代末の段丘化」と呼ばれる現象である。これは河川の下方向の侵食作用が平安時代後期以降に強まり、それまで河床と氾濫原がほぼ同じ地面高だったものが、河床と周囲の土地に高低差が生じて、河床と段丘(台地)が分離する地形変化が起きたものだ。古代末の段丘化は各地の発掘調査によって百年単位の細かな尺度で明らかとなり、西日本一帯に広く見られる地形変化と考えられている。

京都市街地の東側を流れる鴨川も、まさしく古代末の段丘化によって地形が変化していた。西日本各地と同じく、平安時代後期以降に鴨川は下方向の侵食を強めて、約2mもの段差を周囲の土地とのあいだに生んだ。現在も新京極商店街などの鴨川周辺には高さ1m以上の段差が連続しているが、これは平安時代後期以降に形作られた段丘崖の痕跡である。

このような地形変化の結果、鴨川に隣接する平安京主要部は地形環境的に安定した段丘上に立地することになり、これが後世に「洛中」とも呼ばれる京都市街地の母体となった。一方で段丘上の市街地と分離した鴨川の河床は、改めて「河原」という地形区分で人びとに認知されることになった。葬送地として、あるいは芸能の地として、さらには処刑場として、鴨川の河原は歴史上たびたび登場する。段丘上の市街地が人間の日常世界とするならば、段丘下の河原は死者や芸能民が主役の非日常を構成したのだ。古代末の段丘化は、段丘と河床の分離という地形的な意味ばかりではない。それは京都の住民にとって、日常・非日常の空間認知をも発達させることになったのだろうか。

そして時代は移り、中世末から近世初めにかけて、鴨川河床と市街地段丘の結合を図る事業推進者が登場した。豊臣秀吉である。彼は京都と東国を結ぶ東海道を整備するなかで、鴨川の河原上に盛土造成した新道路を建設し、鴨川河床と市街地段丘の物理的な結合を企図した。仕上げは、輝く擬ぎぼし宝珠をつけた三条大橋の建設であり、それは古代末の段丘化によって生じた河床と段丘の分離を再統合する記念碑的建造物だったにちがいない。秀吉の鴨川再開発事業の後、京都の市街地は鴨川両岸に広く展開を遂げることになり、鴨川の河原も次第に非日常の色を薄めて市街地から連続した世俗の色に染まることになる。

京都・鴨川の歴史について、人間活動の尺度で語ってみたがいかがだろうか。はたして地形で歴史を語れただろうか。考古地理学の成果を用いながら、さらに地形と人間の関係を考えていきたい。

梅林秀行 〈うめばやし ひでゆき〉
京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、さまざまな視点からランドスケープを読み解く。「まちが居場所に」をモットーに、歩いていきたいと考えている。
NHKのテレビ番組『ブラタモリ』では節目の回をはじめ、関西を舞台にした回に多く出演。著書に『京都の凸凹を歩く』など。

(ノジュール2021年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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